マルコ1.14~20 (2018.1.21)

先日18日には阿佐ヶ谷教会で教区全体研修会が開かれました。週報にも幾度か告知しましたように、主題は「伝道とは何か?」で、講師は東洋英和女学院院長の深井智朗先生でした。わたしはあいにく所用で出席できませんでしたが、毎年のことながら当教会からは多くの人たちが参加されました。今日の午後に持たれる読書会では、その深井牧師が書かれた著書を読みます。書物の題名は「伝道」で、その第1章は「すべては挫折からはじまったのではなかったか」というように、決して成功物語のような筆の進め方ではありません。おそらく過日の教区でのお話と重なる部分がいろいろあるでしょうし、読書会でもそうした話題も出ることと思います。

今日の聖書の冒頭には、小見出しで「ガリラヤで伝道を始める」と書かれています。本文に伝道という言葉が出てくるわけではありませんが、伝道とは何かについて書かれてはいます。バプテスマのヨハネが捕えられた後(それはヘロデと対立することから生まれた迫害で、6章に詳しい記事が出ています)、イエスは伝道を開始されました。福音が途切れることなく、連綿と続いていくことを証ししています。そのイエス宣教の場所はガリラヤでした。ユダヤの世界でも片隅に過ぎない所であり、まして世界の中ではまったく知られることのなかった小さな場所でした。それが今ではこの信仰、世界中に大きな影響を与えるほどになりました。どのような場所であっても、どんなに小さな場所であっても、その置かれたところでなすべきことをなす、それが福音の始まりとなっていくのでした。ルカ福音書にある「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」(ルカ16.10)とのイエスの言葉を思い起こします。

イエスの第一声は次のようなものでした。「時は満ち、神の国は近づいた」。ここには二つのことが告知されています。一つは「時は満ちた」です。この「時」をギリシア語でカイロスと言います。ギリシア語でもう一つ、時を表す言葉にクロノスがあります。これらはどのように違うのか。ホスピスなどターミナルケアで有名な哲学者デーケンさんは、その違いを次のように述べておられます。クロノスという時は、物理的な時間で人間は年を取れば少しずつなくなっていくような時。それに対してカイロスは、質的な時間、かけがいのない時ということです。それは神との関係から得られる時間だともいえます。従ってカイロスは年を取ればなくなっていく時間でもなければ、若いからたっぷりある時間というものではありません。その質的な時間はいつでも用意されているのです。今イエスによって宣言されたカイロスとしての時、それは神によって定められた時であり今満ちたのでした。それゆえにもう一つの告知、すなわち「神の国は近づいた」が語られるのでした。神の国は到来した、来たというのではなく、近づいたと言われました。ただこの近づいたとは、目と鼻の先まで迫ったことであり、ほとんど到来と重なるくらいの近さでした。

その宣教の告知に対し、人々に求められるのもやはり二点述べられています。「悔い改めて福音を信じなさい」。その一つ「悔い改めなさい」。悔い改めるとは、毎週の司式者の祈りの中で、また聖餐式の中でも取り上げられているもので、信仰生活の重要な要素です。自らを吟味し、神に向って心を入れ替えることです。悔い改めが必要でない人間は一人もいません。しかしもし悔い改めるならば、どのような人であっても、神に受け入れられます。現代では人の善し悪しに対してまことに鋭い批判をする人々が多くいます。また評論家然とした人も多くいますが、それらを自らに向ける人はどれだけいるでしょうか。悔い改めによって神から深い赦しを得る。その中で人生の重荷をおろすことのできる恵みです。もう一点は「福音を信じなさい」です。福音とはイエス・キリストの救いの告知です。それを信じることが、この質的な時の到来を前にして、わたしたちに求められる態度なのです。

宣教の告知の後、次にイエスがされたことは宣教に伴う教えを語ることでも、いやしを行うことでもなく、その前に弟子をつくることでした。宣教はイエス一人で行うものではなく、そこには仕える者、奉仕をする者が必要でした。そうした働き人を起こすことによって、宣教がより一層広がっていくのです。ここには4人の弟子の召命が記されています。いずれもガリラヤ湖ほとりでの出来事であり、そこで漁師をしていた二組の兄弟でした。一地方に住む普通の人々であり、またそこで地に足の着いた生活をしていた人々が福音の担い手として召されていくのでした。

ストーリーを読んでいますと、ここでも宣教の告知同様、イエスから始まっていることが分かります。まずイエスの目が彼らに注がれました。「御覧になった」という言葉です(16,19節)。そしてイエスが声をかけられました。ペトロたち兄弟には「わたしについて来なさい」、ヤコブとヨハネに対しては「彼らをお呼びになった」がそれです。「呼ぶ」というのは、単に声をかけるという意味ではなく、イエスのもとへ招く(選ぶ)という内容を含んでいます。このようにすべてはイエスから始まりました。それを受けて弟子となる人々の応答が生まれます。ペトロたちは「網を捨てて従った」のであり、ヤコブたちは「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後についていった」というものです。捨てることと従うこと、それが彼らに共通する二つの応答です。ヤコブたちの場合「舟に残して」と訳されていますが、原語は同じ「捨てる」です。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」につながるものではないでしょうか(マルコ8.34)。

この4人の弟子たちは何も神学校で勉強していたわけではありませんでした。修道院で修業中だったわけでもありません。そうではなく日常のごく普通の生活していたさなかの出来事でした。ペトロとアンデレは網を打っていました。ヤコブとヨハネは網の手入れをしていたときでした。それはクリスマスの夜、羊飼いたちが羊の群れの番をしていたことと同じです。何も特別のことをしていたわけではありません。主イエスはそうした人々の日常の生活の中で、声をかけられ、福音の恵みへ招かれたのです。ある人はそうした働くことさえできず、施設で生活をしているかもしれません。入院を余儀なくされている人たちもいるでしょう。けれどもどのような場所、どのような境遇の中にあっても、人間が生きているところ、その人々をイエスはご覧になり、まず声をかけてくださるのではないでしょうか。「時は満ち、神の国は近づいた」。この質的な、かけがえのない時(カイロス)は誰にも等しく用意されています。イエスの呼びかけに応え、その招きにあずかり、悔い改めて福音を信じることにより、わたしたちは新しい命へと導き入れられていくのです。その時こそが質的な恵みの時となり、人生の至るところで与えられる神との出会いの時なのです。