マルコ10.32~45 (2018.3.18)   

40日にわたるレントの歩みも少しずつ大詰めに近づいてきました。わたしたちはマルコによる福音書を通してイエスの受難の足跡を辿ってきたわけですが、いよいよここに来てエルサレムという名前が出てきました。「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた」と冒頭にあります。イエスのエルサレム上京は、ただ何となくエルサレムへ行くとか、都を見物するお上りさんのようなものでもありません。そうではなくそこには決然としたイエスの意志が働いたエルサレム上京でした。それが「先頭に立って」という姿に表されており、それを見た弟子たちが「驚き」また「恐れた」と二度も彼らの反応が示されている理由です。その表情に並々ならぬものを感じたのでしょう。「驚く」という言葉は、他の聖書では「肝をつぶす」とか「薄気味わるく思い」といった訳が当てられているのは、エルサレムを前にしてイエスにそれほどの決意が見られたからでした。

そこでイエスは弟子たちに、エルサレムでご自分の身の起ころうとすることを再び話されました。祭司長や律法学者たちに引き渡され、殺され、復活するということです。今日の聖書箇所の冒頭にある小見出しには、「イエス、三度自分の死と復活を予告する」と書かれています。すなわちこの箇所が三度目ということです。それなら前の二回はどこか。最初はフィリポ・カイサリアにおいてでした(8.31)。二度目は9.31にあります。そこを改めて読んでみますと、今日の箇所も含めてある共通したものが見られます。それはイエスが自らの受難(死と復活)について語った後に、弟子たちの誤解が続きます。そして最後にイエスが弟子たちにもう一度受難の意義について語ります。これが共通したパターンです。そう見ますと、この福音書を書いたマルコの意図的な構造とも言えます。それはイエスご自身の最も身近な12弟子の中にさえある不信仰、弱さに対する指摘です。一度目にはペトロがイエスに向かって、主よとんでもないことですと受難を否定しました。それに続きイエスはわたしに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って従いなさいと言われました。二度目には受難告知の後、弟子たちは誰がいちばん偉いかと議論し合っていました。それを受けてイエスは一人の子どもを抱き上げて、このような小さな子どもを受け入れる者がわたしを受け入れるのだと受難の意義を教えられたのでした。

そしてここ三度目です。イエスが自らの受難を語られた後、ゼベダイの子ヤコブとヨハネがイエスのもとに進み出て言いました。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」。イエスが「何をしてほしいのか」と尋ねられると、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。彼らは終末の時が来たら、復活のキリストが万物を支配するという栄光を信じていたのでしょう。もちろんその前に受けるべき受難は欠落しています。それに対してイエスは言われました。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」。さらに言われます。「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」。ここでの杯と洗礼(バプテスマ)とは、受難、死を意味したものです。決して喜びとか祝福という意味ではありません。

「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」。それならわたしたちはどうでしょうか。分かっているのでしょうか。今日の賢明で慎ましい信仰者たちは、ここまであからさまな願いを神に求めることはしないでしょう。そのような祈りこそしませんが、それならイエスが指し示す道を理解しているでしょうか。イエスによって選ばれた12弟子、最も身近な弟子においてすら三度にもわたって誤解が指摘されました。それならばわたしたちはどうなのでしょうか。わたしたちが描いている、また願っている信仰者としての道は、イエスの道と一本でつながっているでしょうか。それとも食い違いなど、どこかに誤解があるのでは。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」。この問いかけは、いつもわたしたち一人ひとりにも臨みます。

そこで次のように言われました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの間で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」。この世の人々が求める偉さとは何か、またいちばん上の者になりたいという志向に対し、ここでイエスは神と人とに仕えること、すべての人の僕になるという反対の道を示されました。

第二次大戦時に殉教したドイツ・ルター派の牧師・神学者であったD.ボンヘッファーは、キリストの恵みを二つに分け、一つを安価な恵み、もう一つを高価な恵みを呼びました。両方とも恵みと呼んでいますが、実際には恵みが二つあるというよりは、双方対立する関係にあると語っています。安価な恵みとは、バーゲンセールのように投げ売りされた赦し、慰め、聖礼典こと。これなど多分に当時のドイツやヨーロッパの教会が背景になっているものと考えられますが、もちろん今日のわたしたちにおいても決して無関係ではありません。安価な恵みとは悔い改め抜きの赦しの宣教であり、罪の告白抜きの聖餐であり、服従のない恵みである。高価な恵みとはそれらの反対です。それは畑に隠された宝であり、そのために人は出かけて行って、自分の持ち物を全部喜んで売り払う(マタイ13.44)。高価な恵みとは、イエス・キリストに対する服従から得られるものなのです。

ならばその高価な恵みの源となるイエスはどのような道を歩まれたのでしょうか。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」(フィリピ2.6-9)。そのようにキリストは仕えることによってまことの支配者となり、自ら人々の罪を担うことにより栄光を受けられたのでした。今日の箇所でイエスが最後にこうまとめられました。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。

週報のトップに掲載しています聖句、3月はイザヤ書53章から取りました。人々の罪を担う苦難の僕の箇所です。まことなる神が肉なる人となり、しかも僕として人々に仕え、最後には十字架においてわたしたちの罪を担われました。それが主イエス・キリストです。わたしたちも信仰者としてキリストに従おうとするならば、他者に仕えることによって、僕となることにおいてでなくてはなりません。それこそが高価な恵みであり、もっとも偉大な道であり、そしていちばん上になることでもあるのです。