ルカによる福音書11.4a (2018.10.28)

今年度の秋の大きな活動でありました特別伝道集会、先週恵みのうちに終えることができました。皆さんはいかがだったでしょうか。深井先生をお迎えして、午前も午後も大きくは伝道というテーマで1日を送りました。午後は「壁を超えるにはー伝道について改めて考える」の主題のもとで講演していただきました。その中でわたしにとって印象に残っているのは、壁を超えるためにはどうしたらよいか(これは深井先生が付けられたタイトル)、いろいろ考えたが、結局はわたしたちが壁を超えるのではなく、神様が壁を超えてくださっているのではないかというものでした。峯田さんがこの講演題から素晴らしいデザインのチラシを作ってくださいました。今、何かと話題になっているスポーツ、ボルダリングの様子を描いたものです。確かにあのような側面、つまり教会が、そしてわたしたちが超えなくてはならない課題・問題点はあります。それがあそこで登ろうとしている壁だろうと思います。しかしもっと根本的な面では、その壁はキリストにおいて既に超えられているということなのでしょう。たとえばエフェソ書では、キリストは「御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」と述べています(2.14)。あるいはイエスご自身が、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」と言われました(ヨハネ6.44)。壁はわたしたちの課題である。だから何とかそれを超えていかなくてはならない。けれどももっと根源的なところでは、わたしたちに先んじて、そうした壁のような困難がすでに取り除かれているということでもあるのです。

「主の祈り」の第5番目の祈願は、「われらに罪をおかす者を我らがゆするごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」です。これを伝統的にわたしたちは「主の祈り」として唱えています。これは1880年(明治13年)の訳で、当然文語体です。讃美歌21には、それ以外に日本キリスト協議会訳や教会音楽祭委員会訳など、現代の言葉遣いの「主の祈り」が載っています(148頁)。「主の祈り」のオリジナルはマタイ福音書とルカ福音書の2福音書にあり、今日はルカ福音書の方を開きました。ここでは今読んでいただいたように、こう書かれています。「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」。この順序が原語の通りです。ここで分かりますように、聖書には罪という言葉だけでなく、負い目という言葉も使われています。並行記事のマタイ福音書に至っては罪という言葉は使われておらず、負い目という言葉だけが出てきます(6章)。負い目、口語訳聖書では「負債」と訳していますが、これは経済的な負債をあらわしています。それが宗教的な意味を含んでここで語られているのでしょう。

次のような遣り取りがイエスとペトロの間でなされました。ペトロが個人的に何か人間関係で悩みがあったのか、それとも一般的な質問だったのでしょうか。イエスにこう質問しました。「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」。それに対してイエスは、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われます。ほとんど際限なくということです。そして一つのたとえを語られました。それが今申しました経済的な負債、借金のたとえです。ある王が家来たち貸した金の決済をしようとしました。最初に1万タラントンの借金をしていた家来が連れてこられました。1タラントンとは6000デナリオンに相当します。それの1万倍ですから、6000万デナリオンとなります。1デナリオンは普通の労働者1日分の賃金ですから、6000万デナリオンとは16万年分の賃金です。まさに天文学的な数字で、このような借金はいかにギャンブル好きであっても、現代の仮想通貨の世界にどれだけはまっても、こんな借金は生まれないでしょう。そのような借金をしていた家来、ひたすら王に赦しを請いました。そこで王は憐れに思い、借金を帳消しにしてやりました。その家来、帰り道で今度は自分が金を貸した仲間に会いました。貸していた金額は100デナリオン、つまり100日分の賃金です。これも決して少ない金額ではありませんが、自分が赦された16万年分の賃金に比べれば天と地の開きがあります。それでも彼は仲間をひどく責め、最後には牢に入れてしまったのでした。それを聞いた王は怒って、自分が赦してやったこの家来を再び呼びつけ、牢に入れてしまいます。そこでイエスはまとめとしてこう言われました。「あなたがた一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」(マタイ18.35)。

「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」。これが赦すことと赦されることの関係です。「わたしたちの罪を赦してください」。この祈りは単独で存在するのではなく、合わせて「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」と一緒になっています。この後半の部分、マタイによる福音書ではこうなっています。「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」(6.12)。違いは「皆」が入っていないということ以上に、これが過去形になっていることです。「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。こうなると「主の祈り」も少し違ったものになるのではないでしょうか。日々犯す罪の赦しをわたしたちは祈っています。それは怒りであり、憎しみであり、ねたみであったりします。また人を赦せないという自分の心の狭さ、醜さもあるでしょう。そうしたことすべてを含めて、「わたしたちの罪を赦してください」と祈っているのではないでしょうか。ところがこの願いと合わせて、わたしたちも赦しましたからとなると、とたんにプレッシャーを感じて、口ごもってしまうのではないでしょうか。わたしは古代の教会が「主の祈り」を制定したとき、どうしてこの第5の祈願を過去形マタイ福音書ではなく、ここルカ福音書から取ったのだろうかと想像します。「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」。わたしたちが赦しましたではなく、赦しますからというようにです。それでも依然として罪の赦しを祈り求めるときには、自らの振る舞いも付いて回っていることには変わりありません。

「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」。先程のペトロではありませんが、わたしたちはまず何よりも罪赦された者です。あの返済不可能な膨大な借金を帳消しにされた家来のようにです。しかしわたしたちは同時に、そんなに大きな金額ではなくとも、日々苦しんでいる罪があります。それを赦せず、またそれが重荷ともなっています。それでもまず赦された者として生きていること、生きていけることに希望と慰めを得ながら、この「主の祈り」を唱えつつ、罪の赦しに向き合っていくのではないでしょうか。