青春の日々  コヘレトの言葉12.1-2、9-14    2020.6.14 

3か月前の329日から始めた在宅での祈り、またネット中継による礼拝は、先週まで実に11週に及びました。その間、教会出席だけでなく、不要不急の外出自粛が呼びかけられ、皆さんはいろいろと不自由、ストレスを感じてこられたのではないかと思います。まだ新型コロナウイルス感染の危険性が収束したわけではありませんけれど、とりあえずこのように再び礼拝堂に集う環境になったことをまず感謝したいと思います。昨日は今日の礼拝のために有志が教会に集い、いろいろ準備をしてくださいました。その表情を見ていても、いかに今日の日を待ち望んでいたか、その喜びがひしひしと感じられました。

11主日に渡る礼拝は、3人だけが教会に詰めただけでした。以前、地方で開拓伝道をしていた先輩が、礼拝になかなか人が集まらない、ひどいときには誰も来ないときがあり、ただ壁に向かって説教する日々が続いたことを話しておられました。今回わたしはそれを思い起こしましたが、しかしわたしたちの教会では壁にカメラが取り付けられていて、そのカメラの向こうには一緒に礼拝をする多くの友がいるという面ではまったく異なっています。それでもこうして実際、礼拝堂へ皆が一緒に集まることができるということに、改めて恵みを感じています。

礼拝は再開されましたが、まだ本格的な活動には至っていません。今日は教団の行事としては「子どもの日・花の日」で、いつもなら子どもと一緒の合同礼拝を行い、その中では子どもの祝福をしてきました。残念ながら今年はそれを見合わせました。教会学校の再開は7月からとしています。それでも現状がいかに困難であっても、一歩一歩着実に進んでいきたいと考えています。

今日はそのように子どもはいませんが、「子どもの日・花の日」を念頭において聖書を選びました。奏楽者の前奏曲も同じようにしてくださっています。コヘレトの言葉の12.1の言葉、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」。この言葉は、教会学校で、また青年会でよく用いられる聖句だと思います。一つ前の口語訳聖書の方が馴染みがあるかもしれません。「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」。皆さんの中にも子どものとき、若いときに、この聖句を励ましとして受け取った人がおられるのではないでしょうか。これは今日でも真実で力を持った言葉です。

コヘレト、これはヘブライ語をそのままカタカナにしたものです。口語訳聖書では「伝道の書」でした。コヘレトとは教師あるいは説教者という意味です。その知恵者、説教者が信仰におけるさまざまな大切な教え、指針を語っているのがこの書物です。そういう意味では直前の箴言や詩編と形式、内容は似ているところがあります。

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに」。青春の日々と苦しみの日々が向き合っています。それなら苦しみの日々とはどのような日々か。それを老いの日々としています。それを次の言葉で示しています。「『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないように」。以降はその青春と老いの日々を詩的に述べています。「太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに」。これがコヘレトの語る若き日であり、老いの日々です。

そもそもこのコヘレトの言葉には一方には刹那的な快楽主義が見られます。たとえばこんな言葉が語られています。「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ」(11.9)。その場さえ楽しめばよいというような姿勢です。他方ではすべては空しいといった厭世的なものも見られます。「若さも青春も空しい」(11.10)。人間はすべての世代においてそうですが、特に子どもから青年時代にかけては迷いの多い時代だといえます。社会の一時的な流行をあたかも絶対的なもののように追いかけていく。そうしたなかで右往左往しやすいのは、特に若い時代の特徴ではないでしょうか。それゆえに生きる土台となるもの、座標軸のようなものが必要なのです。それが「お前の創造主に心を留めよ」との言葉です。天地万物を、そしてわたしたち人間を創造された神は、また罪と死から救ってくださる救済の神でもあります。あなたたちを造られた神、その神によってあなたたちは生まれた時から負われてきた。「同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」と言われるとおりです(イザヤ46.3-4)。

そこでこの書物を閉じるにあたり、最後に伝道者は言うのでした。「すべてに耳を傾けて得た結論」(13節)。二つありました。すなわち「神を畏れ、その戒めを守れ」。この二つであり、「これこそ、人間のすべて」と断言するのでした。これこそが人間の座標軸となるものであり、特に子どもの時、青年の時代に必要なものなのです。守るべきこの二つは、別々のものではなく、双方深く関係したところの二つです。神を畏れることは、あらゆる知恵・知識の初めとなるものです(箴言1.7)。心をつくして、思いをつくして、力をつくして主を崇め、主を信じるということ。もう一つの戒めはモーセの律法を中心とした旧約にある数々の教えです。それがさらに新約聖書になると「新しい掟」として、イエスから次のように語られます。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13.34)。つまりコヘレトの結論は、イエスによってまとめられた二つの重要な教え、すなわち神を信じることと、隣り人を愛することにつながっているのです。新型コロナウイルスの災いにより、自宅にこもることが多く孤立しがちでした。それを思うと余計、このような礼拝をとおして神を仰ぐこと、そして信仰の友との交わりがいかに大切かを知らされます。自分一人で生きようとするのではなく、わたしたちは主を信じつつ、交わりの中で生きていくのです。

※本宣教は久しぶりに会堂に集まって聞く事が出来ました。
 以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

聖霊降臨節第3_2020年6月14日