宣教 「信仰が与える力」 マタイによる福音書 26:36-46 2020.10.11

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」
(マタイによる福音書26章39節)

信仰は、努力して得るものではなく、無条件に神様から与えられるものです。信仰には、倒れた者、倒された者を引き起こす力があります。キリスト者は倒れない者ではなく、倒されても、そのたびに起こされる者です。起こされるために必要なことは、自分の力や思いから離れることです。溺れているときは、もがけばもがくほど沈みます。力を抜いて、自分を空にして浮かんでくる、引き起こされるのです。しかし、自分を捨てられず、自分の力に頼り、自分の思いから離れられない罪ある私達です。主イエスはその私達のために、十字架の死という杯を飲まれました。それは決して、喜んで、進んでその杯を仰いだわけではありません。一度は拒んだのです。しかし御心のままにと父なる神に委ねました。私達も、何かを飲み込みながら生きています。時には、理不尽なこと、意に沿わないこと、納得のいかないこと、どうしても飲み込めないこともあります。自分を空にして受け入れることは、決して易しいことではありません。愛することも同じです。自分の気に入る人を愛せても、敵を愛することは、心から受け入れることはできないものです。愛しているつもりでも、実は愛せていない自分に気づくはずです。他者を受け入れることは異物を口にすることと同じだからです。しかしそのような人間を、神は愛し、受け入れてくださいます。罪ある、自己中心的な、自分の思いで満たされた私達を、すべて受け入れてくださる。生かしてくださる。その神にすべてを委ねたとき、私達の中で神が、主イエス・キリストが生きて働くのです。自己中心から神中心に変えられます。自分の思いで一杯だったのが、空にされ、神の御心に従うものにされるのです。神は主イエス・キリストを通して、御言葉を通して、礼拝を通して、絶えず私達に働きかけてくださいます。絶えず呼び掛けてくださる。その言葉を、神のなさることを糧としていただき、味わえばよいのです。自分の聞きたい言葉ではなく、耳に痛い言葉も、どんな言葉もいただくのです。神の言葉を神の言葉として聞こうとするならば、どんな言葉も重みをもって私達に迫ってきます。その言葉の重みで低くされ、小さくされ、空にされます。私達の力ではなく、言葉に対する姿勢、態度が大事なのです。聖餐のパンも杯も、この重みをもって味わうことで、初めて意味あるものとなります。今自分を捨てられなくても、委ねられなくても、飲み込めなくても、この御言葉を共に聞く者が与えられています。心から求めれば、神様が必ず出会わせてくださいます。共に捨て、共に委ね、共に飲み込んでいく。信仰の豊かさ、力は一人にあるのではなく、どれだけの者と与るかということにあります。神にすべてを委ね、神の力、聖霊の息吹を受けて、力強く押し出されて、新しい一週間を共に歩んで参りましょう。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

聖霊降臨節第20_2020年10月11日配信