人の意志や努力でなく ローマの信徒への手紙9.1-18 2020.5.10
わたしたち野方町教会は1937年5月8日を教会創立日としています。以来毎年5月の第2日曜日を教会創立記念礼拝として守り続けてきました。本日は創立83周年の礼拝になります。今日の週報にも書きましたとおり、わたしたちはこれまで導いてくださった主に感謝しながら、あわせて多くの先達に「雲のように囲まれている」(ヘブライ12.1口語訳)ことに励まされてきました。それはまたこれからの新しい1年、それに続く次の時代においても、同じ変わることのない導きと支えに対する深い確信でもあります。
さて礼拝の聖書は再びローマ書に入ります。まだ教会総会を開けていないので一同で確認していませんが、総会資料の「宣教について」で述べていますように、昨年度から読み始めたローマ書は残り半分を今年度で読み終える予定です。今日はその後半の最初の箇所となります。ここには旧約聖書の時代から神の約束の担い手であったイスラエルの民が、新約時代にはどのようになるのかが語られています。ご存知のようにパウロは「異邦人の使徒」と呼ばれたとおり、彼の宣教の地はユダヤではなくローマやギリシア等でした。しかし彼はユダヤ人出身でした。そのユダヤの民は福音から見ればその後どうなるのだろうか、それがここでの問題であり、また彼の傷みでもありました。「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」と語るのはそれゆえです。異邦人への使徒として彼らにキリストの救いを宣べ伝えつつ、あたかもユダヤ人に背を向けているような姿勢、その彼らユダヤ人はどうなるのだろうか。「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられてもよいとさえ思っています」とまで言っていますが、これは単に彼がユダヤ人であるという個人的な苦悩だけでなく、大きくは旧約と新約の関係、その連続性(非連続性)を述べているのです。
いったい旧約時代のイスラエルの民、そこに出てくる信仰の父アブラハムを代表とする人々は、新約、キリストの光の下ではどのような位置づけになるのでしょうか。そこでパウロは言いました。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということではない。アブラハムの子だからといって、そのままアブラハムの子になるわけでもない。そこで二つの事例を出して語ります。一人はそのアブラハムについてです。彼には妻サラとの間にイサクが生まれました。またそれ以前、サラに子どもが生まれなかった時代、女奴隷ハガルとの間にイシュマエルという子どもがいました。しかし肉においてはどちらもアブラハムの子ども、子孫ではありますが、約束の子はただイサクだけでした。もう一つのケースはそのイサクの子に関してです。イサクには二人の子どもがいました。その二人はアブラハムの場合と違って、同じ母リベカとの間に生まれた子どもであり、しかもは双子でした。エサウとヤコブです。最初の事例であるイサク、彼はアブラハムと妻サラの間の唯一の子であり、イシュマエルは女奴隷ハガルの子でした。人間的に見るならば、イサクが約束の担い手であることがある意味では納得できるかもしれません。けれどもエサウとヤコブのケースは違います。人間的に見ても何ら区別はできません。同じ一人の母から生れ、しかも同時に生まれて双子であるからです。むしろエサウが兄として生まれたわけですから、彼が相続の担い手であってもおかしくありませんでした。ところがその担い手は、エサウではなくヤコブでした。
神の祝福は、イスラエル人だからといって自動的に、つまり自然の、肉のつながりによって与えられるのではなく、神の約束に基づくものです。その中でイサクが選ばれ、エサウでなくヤコブが担い手となり、彼らがまことのイスラエル、アブラハムの子となっていったのでした。それならなぜ彼らが選ばれていったのか。その原因は人間の側にありませんでした。それを聖書で次のように言っています。「子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに」。生まれる前からというのは、つまりわたしたちが存在していなときからです。当然、何か善いこと、悪いことをすることはありません。つまり信仰には何ら人間の側に理由がないということです。
それならどうして彼らは選ばれたのでしょうか。それはただ一点、「自由な選びによる神の計画」によるものでした。この人間には分からない神の「隠された選び」がイスラエルの歴史を、教会の歴史を、そしてわたしたちの生涯を導いていくのです。それは現在もそうです。別の言い方をするならば、「人の意志や努力ではなく、神の憐れみによる」歴史です。わたしたちが神の憐れみを受けるに価する人間かどうか、ふさわしい者かそうでないか、そのことによって神の憐れみが臨むというのではなく、人間とはまったく独立して、切り離されて、ただ一方的な神の憐れみ、慈しみが注がれるのがわたしたちの信仰なのです。それによって人間が成り立つのです。もちろんわたしたちにも志はあり意志はあります。努力もしますし、努力もできます。また努力できなくなるときもありますし、そうした時代も来るでしょう。けれども人間の存在の一番根本、神の約束においては、「まだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに……自由な選びによる神の計画が人の行いによらず、お召になる方によって進められ」ていることなのです。それこそが旧約と新約の関係であり、そこにおいて今もまことのアブラハムの子が夜空の星のように多く生まれ続けていくのです。それはわたしたち野方町教会のこれまでの歴史だけでなく、これからもさらに続く歩みにおいても、またそこにつらなるわたしたち一人ひとりの生涯についてもあてはまることなのです。
※本宣教はネット配信による礼拝として守られました。
以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。