ヨハネ13.31~35 (2018.4.22)

わたしは週に数回、近所の平和の森公園に行って汗を流しています。現在、そこには体育館を建築するために槌音が聞こえています。2年後に迫った東京オリンピックのための事業なのでしょう。そうした建設は、首都圏のあちこちで現在進行していることと思います。そのオリンピックと言えば、何と言ってもメダルが話題となります。もちろん受賞者にはメダルが授与されるだけではなく、そこには栄誉、栄光が伴います。それは古代アテネのオリンピック以来同じです。優秀な成績を収めた者に与えられる栄誉は、スポーツの世界だけでなく、学問の世界でも、その他芸術やさまざまな世界にも共通しています。人間の評価を得る。栄誉、栄光にあずかるというものです。

その栄光という言葉、これは聖書にも出てきます。しかも重要な言葉としてです。栄光、ギリシア語でドクサ、英語でグローリーにあたります。しかし聖書に出てくる栄光とは、何と奇妙な栄光でしょうか。わたしたちがこの世界で理解している、そして憧れている栄光と、何と反対の姿を取っていることでしょうか。

今日の聖書には、その栄光という言葉が5回使われています。そこを読んでみます。「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。『今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。すぐにも与えになる』」(31-32)。5つめの栄光は訳されていません。原文では最後の文章はこうなります。「すぐにも栄光をお与えになる」。いったいこの栄光とはどのような栄光なのでしょうか。その栄光とは何を意味しているのでしょうか。それを理解するための重要な言葉が、冒頭31節に出てくるユダの動きです。このユダとはイスカリオテのユダのことで、イエスを裏切った人物です。今日の箇所の一つ前の段落にはそのユダの裏切りの予告が出ています。イエスが弟子たちと最後の晩餐を共にした後、ユダはその交わりから一人出て行きました。それが30節です。「ユダはパン切れを受け取ると、すぐに出て行った。夜であった」。それを受けて今日の箇所です。「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。『今や、人の子は栄光を受けた』」。これが聖書における栄光です。聖書の栄光はこのような関係の中で示されるものでした。オリンピックの表彰台に上る栄光とは何と違う、何と暗く感じる、奇妙な栄光でしょうか。

一方ではユダの裏切りがありました。ならば裏切られたのは誰か。イエスです。その裏切りによって、また裏切られることによって、まさに栄光がおとずれたのでした。「今や、人の子は栄光を受けた」。1枚前に戻した1223節でイエスはこう言われました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。イエスの受けた栄光とは、まさに十字架の死のことであり、そこからの復活でもありました。苦難の死が栄光をもたらしたのであり、そのことによって神からの栄光を、この世の栄光、人間の栄誉と対照させているのです。たとえばオリンピックのような栄光とです。

そこでイエスは弟子たちから去っていこうとされる前に、一つの教えを語られました。34節以降です。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。「互いに愛し合いなさい」。これはヨハネ文書に出てくる特徴的な教えです。他の福音書では、神を愛することと、もう一つ「隣人を自分のように愛しなさい」というように語っておられます(マルコ12.31)。

アメリカ公民権運動の指導者マーチン・ルーサー・キング牧師が亡くなって、今年は50年になりました。196844日銃弾に倒れ、今年も記念集会が行われたようです。わたしは彼の書物を何冊か読んでいます。その内の一つの説教集の中で、次のようなことを述べています。汝の敵を愛せよとのイエスの言葉に対し、「あなたの敵を好きになれ」と言われなかったのは、われわれの幸いとするところである。どうしても好きになれないという人はいるものである。好きになるというというのは、センチメンタルな情愛の深い言葉である。われわれの平等を目指した運動を妨害し、爆弾さえ投げてくる人々をどのように好きになることができるか。これは不可能である。しかしイエスは愛することが、好きになる、好むということよりも偉大であることを認められた。だから好きになることはできない。けれどもその人を愛することはできる、というように語っています。

ならばそのイエスの新しい掟としての愛とはどのような愛なのでしょうか。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しなさい」と言われましたが、その「わたしがあなたがたを愛したように」という愛は、どのような愛なのでしょう。それはキング牧師も言っているように、好きになるとかならないといった心情的なものではなく、宗教的な態度であり、さらに言うならば贖罪的(罪の赦し)また創造的な愛のことです。この愛をギリシア語ではアガペーと言います。それについては一ヨハネの手紙が的確に語っています。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです(4.7-12)。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。そのイエスの愛とは、「わたしたちの罪を償ういけにえ」として十字架において示されたものでした。この深い宗教的な愛、わたしたちに罪の赦しをもたらす十字架の愛こそが、人を生かすものであり、わたしたちを新たに造り変える創造的な愛だったのです。もちろん生来のわたしたちにはこのような愛はありません。ただキリストによって愛され、罪赦されることによって、初めて生まれる愛なのです。互いに愛し合いなさいというわたしたちに与えられた新しい戒めは、このようにキリストによる贖罪の愛を基としている限りにおいてのみ実現されていくのです。そしてそれこそがまさに聖書の語る栄光とも深く関係しているのです