ゼファニア書3.14~20 (2018.12.16)

アドベント第3週にあたり、今日もこれまで同様旧約聖書を開きました。ゼファニヤ書です。水曜日の聖書研究会でも旧約聖書を読んでいるのですが、そこでつくづく思わされることは人間の相反する二つの姿です。それは一方で醜さがあると思えば、他方では美しさがある。恐ろしい一面がある一方、優しさも顔を出す。傲慢さがある一方で、敬虔さや信仰深さも同じ人間から出てきます。それはまた一人ひとりの人間というだけでなく、その全体である社会にもそのような信仰と不信仰という相反する姿が見られます。もちろんこれは聖書だけの世界というわけではありません。決して人ごとではなく、わたしたち自身、またわたし自身の姿でもあることをそこから思わされます。

旧約聖書を貫いているのはモーセの「十戒」であり、そこにどれだけつながっているかによって人は立ちもすれば倒れもする、それを示したのが旧約聖書の歴史です。「十戒」というのは、大きく二つに分かれています。一つは神に対する姿勢、もう一つは人との関係における指示です。またその戒めという命令の形も二つに分かれています。一つは「…しなさい」という推進命令と、もう一つは「…してはならない」という禁止命令です。たとえば安息日を聖としなさいとの命令。それに対して、唯一の神を差し置いて偶像なる神を作り、それを礼拝してはならないという戒め。隣人関係も同様です。父母を敬いなさいといった積極的な戒めに対して、嘘をついてはならないとか盗んではならないという禁止です。そしてその間に、安息日を聖とせよという礼拝を守ることが入っているわけです。結局、この「十戒」を守る、守らないによって、人は崩れることがあり、また祝福されることもあるのです。このことは今日の社会においても同じようなことが言えるのではないかと思います。神以外のものを神とするとき、それがこの世的の権力や地位であったり、お金であったり、最終的には自分自身が一番という傲慢さであったりするとき、人はおかしくなっていくのです。また偽り、盗み、殺人、むさぼりとった貪欲さに関して、今日の社会ではどれだけ21世紀らしい人間として進歩しているでしょうか。

預言者ゼファニヤが見た当時のイスラエルの社会においても、こうした「十戒」に対する背反が至るところで見られました。イスラエルの民は表向きの生活とは裏腹に、心の中では次のように言っていました。「主は幸いをも、災いをもくだされない」(1.12)。こうしたふてぶてしい、謙虚さを欠いた態度は、まさに「十戒」が示す教えに反するものでありましょう。また彼らはこうも言いました。「わたしだけだ。わたしのほかにだれもいない」(2.15)。これもまた傲慢な言葉であり、これを言えるのはただ神お一人だけなのですが、それを一時的な繁栄を手にしただけで語ってしまう人間の罪と不信仰を思います。これもまた「十戒」に背いた人間の貧しさではないでしょうか。

そうした不信仰な生活態度は、おのずと自らを心身共に崩壊へと陥れます。そこには苦しみや悩みがあり、災いや恥にも覆われることとなりました。国としては敵に囲まれることとなり、誉れや名声ではなく、恥と失意が生まれました。16節に「シオンよ、恐れるな。力なく手を垂れるな」という励ましの言葉があります。それは人々の現状がその反対であったことを表しています。つまり彼らは気力を失ってしまい、力なく両手をだらりとしいていたということです。いったい彼らはどういうことをしていたのでしょうか。それをゼファニヤはこのように告発しています。「災いだ、反逆と汚れに満ちた暴虐の都(エルサレム)は。この都は神の声を聞かず、戒めを受け入れなかった。主に信頼せず、神に近づこうとしなかった。この都の中で、役人たちはほえたける獅子、裁判官たちは夕暮の狼である。朝になる前に、食らい尽くして何も残さない(夜の間にすべて食べ尽くす)。預言者たちは、気まぐれで欺く者。祭司たちは、聖なるものを汚し、律法を破る」(3.1-4)。そうした罪が神の憤りをもたらし、苦しみと悩み、荒廃と滅亡が訪れると語るのでした。

けれどもそのような人々を再び立ち上がらせてくだるのも、また神のもう一面でもあります。今日の箇所にはそうした回復の希望の言葉が並んでいます。「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ」(14節)。「主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」(17節)。まことに聖書の神は、罪に対する厳しい怒り、裁きと同時に、赦しと愛を示される方なのでした。だから他の預言者によってこう語られます。「さあ、主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる」(ホセア6.1)。

今日のゼファニヤの預言の言葉を読んでいまして、そこで中心となる言葉は人々のただ中におられる神ということではないでしょうか。「イスラエルの王なる主はお前のただ中におられる」(15,17)。この「ただ中におられる神」とは、また別の言葉で言うならば、あなたがたと共におられる、あなたがたの内におられる、またあなたがたの間におられる神とも言えます。わたしは下松教会時代、26年間、教区議長の任に当たりました。そうした重責を担うということは、教会外においていろいろ難しい問題に接することであり、悩み、ときには解決の見込みのないような苦しみに直面してきました。そうしたとき、孤独感に強く襲われたものでした。連れ合いも近くからそれを見、祈ってくれたでしょうが、夫婦であってもすべてを分かち合えるものではありません。それはどんなに仲が良くとも、一緒に病気になることはなく、手術台には一人で上がらなければならないのと同じです。そうした中にあって、主はあなたのただ中におられることはどれほど慰めと励ましであったことでしょう。一人になっても祈ることができる。また聖霊がどのような状況においても臨んでくださるというのは慰めであり、そのことで立ちあがる勇気も与えられました。

まさにこの共におられる神こそ、わたしたちがまもなく迎えるクリスマスのメッセージなのです。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタイ1.23)。主イエスは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と言われました(マタイ18.20)。どんなに小さな交わりであっても、またたった一人であっても、主は共にいてくださる。十字架の後、弟子たちが人々を恐れて鍵のかかった部屋に閉じこもっていたとき、復活の主イエスが彼らの真ん中に立っておられ、聖霊による平安を与えられました(ヨハネ20.19,26)。預言者ゼファニヤの語る「ただ中におられる神」は、このようにインマヌエルの神としてのイエスの誕生において実現するのでした。そのクリスマスをわたしたちは次週迎えようとしています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28.20)。そのようにどんなときにも共にいてくださる主イエス・キリストを心から待ち望みたいと思います。