「すべては恵み」 マタイによる福音書5章3~11節

「平和を実現する人は幸いである。」そうイエスは言われます。勿論、我々の力で平和を勝ち取るということではありません。主イエス・キリストこそが私達の平和です。主イエスの体において、二つのものが一つにされ、互いの敵意がとり除かれ、一人の新しい人に造り上げられる。それはイエスの十字架の出来事によって、私達を神へと和解させ、それぞれの敵意を消滅させることでもあります。

イエス・キリストと出会うことで、私達は他者と本当に出会い、相対する中で一つにされます。自分しか、自分の存在しか認めない人間が、イエス・キリストを信じ、自分を捨て、自分が空にされることで、イエス・キリストが自分の中で生きる。そして他者が同じように自分の中で生きる。また他者の中でも自分が生きる。そうして一つにされるのです。

イエス様、イエス様と言って、一方で他者を裁いている人の中には、実はイエスはおられないのです。私のイエス様、私の教会、私の信仰と言っている人も同じです。私達のイエス様であり、私達の教会であり、私達の信仰です。他者と共にある、他者と共に与る、他者と一つにされる、それが信仰なのです。

私達が一つにされる、平和、平安を与えられるのは、十字架の出来事と復活を通してです。イエスが十字架で死んだ後、ユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけて中にいた弟子達の、その真ん中に復活の主イエスは現れ、「平和があるように」と言われました。主が私達の真ん中におられるところ、そこに平和が、平安があるのです。

私達の真ん中に、主イエス・キリストはおられる。私と友人、私と家族、私と隣人の間におられる。相手がキリスト者であろうとなかろうと、どんな人間であろうと、キリストがおられる。私達は、日々の生活の中で、歩みの中で、イエス・キリストと出会っているのです。

常にイエス・キリストが真ん中におられるのであれば、日々私達が頂くものは、平安だけではありません。慰め、憐み、神の義を与えられます。どんなものも恵みとして与えられます。しかしそれは、自分だけの平安、自分だけの恵みではありません。誰かのための平安、誰かのための恵みです。貧しいものが何故幸いか。自分のものを求めないから貧しく、幸いなのです。誰かの平安を求めるからこそ、共に平安があるのです。そのように平和を実現するものは、神の子とよばれるのです。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

復活節第5_2021年5月2日配信