ローマの信徒への手紙1.1~7 (2019.5.5)

 先週の総会でお話ししたことですが、これまで主日礼拝の宣教で取り上げてきた聖書は聖書日課から選んできました。それは教会暦に基づいて構成されたもので、長い伝統の中から生まれたものです。福音書を中心として、バランスよく秩序立てて選ばれており、説教者が恣意的に選ぶというものではありません。昨年はその中で、「主の祈り」を連続して講解いたしました。それと同じように今年度からは聖書日課から離れて、一つの聖書を連続して読もうとしています。福音書はこれまで比較的多く取り上げてきましたので、今回は手紙を取り上げることにしました。中でも手紙で一番最初に出ているローマ書を選びました。これは次の第一コリント書と並んで全部で16章から成る、手紙の中では一番長い書物です。これを2年かけて読み進めていきます。

 ローマの信徒への手紙、これは他の手紙と違って、パウロ自身が開拓伝道をして設立したものではない唯一の教会であり、そこに宛てて書かれたものです。それでもローマの教会の状況は、比較的よくパウロのもとに知らされていたようです。どのようにしてここローマの教会ができたのか、その経緯はよく分かりません。パウロとしてはこのローマ帝国の都、そこにある教会へ一度行きたい、またその後ここを足掛かりにしてイスパニア(現在のスペイン)にも行きたいと述べています(15章)。この手紙は55年から56年頃にコリントで書かれたと言われています。その後エルサレムへ献金を届け、そこでユダヤ人の陰謀により捕えられました。最後は裁判にかけられ、パウロはローマへ行くことになりました。彼のローマ行きの願いが実現したのです。しかしそれは囚人としてでした。その後、イスパニアへ行ったかどうかは伝説はありますが、確かなことは分かりません。

 ローマの信徒への手紙は、これまで歴史的に大きな影響を与えてきました。教会が危機に直面したときには、このローマ書が登場して決定的な役割を果たしてきました。教会、特に神学の歴史は、この手紙の解釈の歴史であると新約学者の松木冶三郎さんは述べています。宗教改革時も例外ではなく、メランヒトンはローマ書が「キリスト教の教学を総括する」と言い、ルターは「新約聖書の中でもっとも明らかな福音である」、カルヴァンは「この手紙を理解する者は全聖書を理解する扉を開く」とまで言っているほどです。さらに第一次世界大戦後にK.バルトは1300頁にも及ぶ膨大な「ローマ書」を書き、近代の神学と文化に大いなる挑戦をなし、それは現在でも依然として影響力を持っています。  今日の箇所は、冒頭の小見出しの通り挨拶です。すなわち差出人であるパウロの自己紹介、そしてこの手紙の受取人であるローマの信徒、その真ん中ではこれから語ろうとしている手紙の中身に触れています。それがたった7節で語られているのですが、ここに込められている内容は、単に手紙の書き出しにとどまらず、手紙全体の終わりでもあり、その内容全体をもコンパクトに指し示していると言ってよいと思います。

 まずパウロの自己紹介、けれども通常の名刺に記すような肩書きではなく、彼の立場を3点にわたって述べています。1点は「キリスト・イエスの僕」という肩書です。僕、別の言い方では奴隷でもあります。パウロは自身に対しこの肩書きを積極的に用いています。彼はキリストの奴隷であって、決して主人とはならず、キリストに徹底して仕えるというものです。2点目は「神の福音のために選び出され」という肩書です。自分が選んだ信仰、自分の熱意というのではなく、神によってこの世から選び分かたれたということです。そして3つめが「召されて使徒となった」ということです。この3つに共通するものはすべて受け身だということです。パウロの使徒としての務めは、彼の熱心さとか、学識から来るものではない。そうではなく神の召し、選びによるものなのです。これがパウロの立っている根拠であり、手紙を差し出す理由です。

 それでは彼は何の目的で神に選ばれて使徒となっているのでしょうか。それは福音を宣べ伝えるためだと言っています。福音、エウアンゲリオン、それこそこれから16章にかけて彼が語ろうとするすべてで、まさにイエス・キリストの救いの恵みのいっさいを意味しています。「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです」と述べています。長く旧約聖書の時代から数々の預言者によって約束されてきたもの、それが神の独り子イエス・キリストに関するものなのです。その御子キリストについて、さらにこう述べています。「御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」。ここには御子キリストについて二つの側面が記されています。すなわち「肉によれば」と「聖なる霊によれば」という二面です。一方でキリストは旧約から待ち望まれてきたダビデの子孫として、ダビデの子として肉なる地上の生涯を歩まれた。けれどもそれだけではなく、キリストは死者の中から復活された力ある神の子でもありました。それは長く約束されてきた救い主がクリスマスに馬小屋でお生まれになり、その生涯の最後には十字架、そして復活によって新たな命と希望をこの世界に与えられた、その全体をこの二面においてまとめているのです。

 これが福音、すなわち御子イエス・キリストの救いの内容です。その恵みを伝えるために使徒としてパウロは召されたのですが、その恵みは異邦人であるローマの信徒にも及んでいると言いました。ローマの教会の中でユダヤ人キリスト者とローマ人など異邦人キリスト者の割合は分かりませんが、やはりローマは異邦人の世界であり、これからますますそうしたユダヤ人でない人々が信仰を持つのでしょうから、異邦人と呼んでいるのでしょう。けれども異邦人であっても、信仰の恵みが注がれることにおいては何の分け隔てもありません。ここでパウロはそれを示すために重要な言葉は二度も用いています。「この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」がそれで、ここに「召されて」という言葉を二度も用いています。それはパウロ自身も冒頭1節で自身「召されて使徒となった」と記しているのと同じ言葉、従って同じ重み、同じ恵みです。

 そして結びの言葉、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストから恵みと平和が、あなたがたにあるように」。ギリシア人は人に会うとき「恵みあれ(カイレ)」と挨拶をし、ユダヤ人はシャーロームと挨拶をしました。その恵みの中心は罪の赦しと神の慈愛にほかなりませんが、そのもとでわたしたちにとって好ましいこと、願わしいことのいっさいがここに含まれているのであり、また祈られているのです。このことはわたしたち自身に対しても、まったく同じことが言えるのではないでしょうか。すなわちキリストによる救いの福音を通して、神に愛され、召されて聖なる者となったということ。わたしたちにも同じように、恵みと平和が与えられているのです。これこそわたしたちが生きていく根源であり、それは世の何ものによっても取り去ることができないものなのです。