ローマの信徒への手紙8.1-11 (2020.2.2)
先週の礼拝では、わたし自身も個人的に大変影響を受けてきた箇所であるということと関連しながら、ローマ書の7章の後半を読みました。たとえばこんな言葉がありました。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(15節)。わたしの中にはこうしたいと思う自分がいる。他方ではそれをさせない自分、むしろ反対にしたくないこと、さらにはわたし自身が憎んでいることを行ってしまう自分がいる。皆さんにも強弱は別にしてこういう経験があると思います。あるというよりは、日々の生活がこうした二つの自分の板挟みの状態にあるのでではないでしょうか。家庭で、学校や職場など人間関係で。そうした中、苦悩しながら、また適当にそんな自分と妥協しながら歩んでいるのではないかと思います。これに関して、さらに次のような言葉が続いていました。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(18-19節)。情けない自分ですね。そのような自分とは、単にわたし個人のこと、パウロ一人のことというのではなく、例外なくすべての人間が抱える内面の分裂した姿なのです。そしてそこから発せられる言葉はこのようなものでした。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(24節)。これこそがすべての人間の悲惨さなのです。
肉と霊、肉に従って歩む、霊に従って歩む。この二つは聖書を理解する上で、特に罪と救い関して重要な言葉です。肉とは人間の脆く、弱い側面を言い表したものです。それは罪の誘惑に陥りやすい面であり、実際に陥っている側面です。先程の言葉で言い表すならば、「かえって憎んでいること」へと自分を導く力、「望まない悪」へと誘惑される、また誘惑する力です。それに対して霊に導かれて歩む、それは神に委ね、自分ではなく神の導きに従って生きるということです。この二つの生きる方向性を今日の聖書は次のように述べています。「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」。
ならばその肉に支配された自分、霊に従って歩みたいと願いながら、それが実行できず、むしろ反対の方向へと向かってしまうわたしたちはどうすればよいのでしょうか。まさに「だれがこの死の体から、わたしを救ってくれるのでしょうか」への答えはあるのでしょうか。そこにはいかなる解決策もありません。どのような立派で力のある人物であっても、どのような政治・経済のシステムをもってしても、この問いに答えうるもの、解決できるものは地上には存在しないのです。そこにはただ一人、主イエス・キリストがおられるだけなのです。そのキリストによる救いを、今日の中心聖句である3節でこう述べています。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」。現在も降誕節の歩みを続けていますが、これはまさにクリスマスのメッセージの一つ「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」に共通するものです(ヨハネ1.14)。キリストは神の独り子であったにもかかわらず、わたしたちと同じ人間の姿、しかも弱く脆い限界ある肉の姿をとられたということです。それをさらにここでは「御子を罪深い同じ姿でこの世に送り」と述べているのです。この「同じ姿」はギリシア語で「ホモイオーマ」と言いますが、これはなかなか微妙な言葉遣いです。確かにイエスは人として地上を歩まれました。そこではわたしたちと同様、疲れがあり、のどの渇きがあり、涙も流されました。けれどもただ一点、罪深い同じ姿ではありましたが、わたしたち人間と違って罪は犯されませんでした。それをヘブライ人の手紙ではこのように述べています。キリストは「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(4.15)。
今年からNHKの大河ドラマでは「麒麟がくる」が始まっています。主人公は明智光秀ですが、この光秀の娘の一人が後に細川ガラシヤと名乗る人物です。ドラマでは彼女のことがどこまで描かれるのか知りませんが、あの戦国の封建時代、しかも彼女が嫁いだ環境の中で洗礼を受けるというのは大変困難だったと思います。それにもかかわらず、それ以上に彼女を信仰に向かって突き動かす力が働いていたのでしょう。当時、洗礼の準備などに使われた信仰問答集(カテキズム)の日本語版に「どちりいな・きりしたん」(ポルトガル語の日本語)がありました。同じ頃、ヨーロッパではプロテスタントが別の道を歩んでおり、その中で同様のカテキズム「ハイデルベルク信仰問答」も出版されています。全部で129の問答で構成されているのですが、そこでの初めの部分に人間は「生まれつき、神と隣り人を憎む傾向にあります」と書かれています。ここは人間の惨めさ、それを人はどのように知るのかといった問いから生まれたものです。キリストは神と人を愛し、最後まで神に従いつづけ、人に仕える僕としの道を歩み通しました。そのような十字架の道をひたすら歩まれたキリストによって、「生まれつき、神と隣り人を憎む傾向に」ある人間の姿が鮮明に指し示されるというのです。と同時にそうした人間の生来の腐敗と罪を癒すのも同じ主イエス・キリストなのです。細川ガラシヤもそうした問題に苦しんでいたのだと思いますし、そこから癒される福音のメッセージに生きる力が与えられたのではないでしょうか。
感謝すべきことにわたしたちは今も肉における限界ある命を生きてはいますが、その目指す方向は肉の支配下にあるのではなく、霊の導きの下で歩むことが許されているということです。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にあります」とある通りです。そして最後に聖書は次のように言うのでした。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」。何と力強い慰めの言葉ではないでしょうか。わたしたちはこのキリストによる十字架と復活によって、またわたしたちと共にある、そして内に宿る聖霊の導きによって、もはや生まれつき神と隣り人を憎む傾向にあった、そのような自分から解放されて、反対に神を信じ、神を愛し、隣り人を愛し、隣り人に仕える方向へと導かれているのです。
※教会員の方は以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。