ダビデの子   マタイによる福音書12.22-32    2021.2.28 

体や心に障がいを抱えて生きるということは、そこにいろいろと困難を伴います。今年度もクリスマス対外献金では、北海道の札幌近郊にある島松伝道所に献金しました。この教会は亡くなられた桑原信子さんのお父上が土地を寄付して建設された教会で、現在は辻中牧師が教会に仕えておられます。この先生とは以前わたしは一緒に働いたことがあり、よく知っています。彼自身も病を抱えながら、教会の牧師として働いておられます。この度のお礼状に、次のような言葉が添えられていました「情けなく、惨めでも、それで順調」。障がい者と共に歩む教会としての一端が出ています。

今日の聖書には「目が見えず口の利けない人」が出てきます。昔から聾唖という言葉が対になって使われてきたように、耳と口は深く関係しています。ここには耳が聞こえないとは書かれていませんが、おそらくそうであったと考えられます。冒頭に「悪霊に取りつかれて」と言われてしまう、そのような見方・偏見がありました。心身の病は悪霊によるものだと多くは受け取られていたのです。その神に敵対する存在、またその力が大きく4つで言い表されています。そのうち3つが今日の箇所に出てきます。最初が今言いました「悪霊」です。2つめがベルゼブルで、悪霊の頭と理解されています。3つめはサタンで、これはヘブライ語そのままです。4つめは悪魔として出てくるもので、イエスを荒れ野で試みた者です。このように神の敵対者の名前が多くあるということは、人々がそれほど現実的な力として恐れ、その存在を信じていたからでしょう。

この病める人がイエスのところへ連れて来られたとき、主はこの男を癒されました。彼はものが言え、目が見えるようになったのです。主イエスはいつもこのように重荷を負う人々共に歩まれ、その重荷を取り除かれました。それを見た人々は一様に驚きました。そして言うのです。「この人はダビデの子ではないだろうか」。「ダビデの子」。イエスはいろいろな呼び名(称号)をもって呼ばれました。神の子、主、メシア、預言者などです。その一つが「ダビデの子」です。彼らはここで「ダビデの子」と呼んだのは、イエスをどのように理解したのでしょうか。大きくはメシアとしての呼び名であることは間違いありませんが、特に政治的な色彩が強い呼び名でした。かつてのダビデ王のように、今再び国を復興することのできる理想的な王というものです。それをこの男の癒しにおいて、イエスこそ自分たちが待ち望んでいる救い主ではないかと互いに言い合ったのでした。

ところがそれに対してもう一つ、ファリサイ派の人々は違った見方をしていました。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言いました。つまりイエス自身が悪霊に取りつかれているのであって、この出来事は彼自身も悪霊の仲間であり、神に敵対した人物であることを証明しているというのです。そう言えば、マルコ福音書の並行箇所では、この出来事の直前に、イエスは気が変になっているということで、身内の者が取り押さえに来ています。(3.21)。それに対してイエスはこう答えられました。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない」。確かにその通りです。一つの家庭の中でごたごたが続けば、その家は成り立って行きません。国においてもそうです。今テレビをつければ連日と言ってよいくらいニュースになっているものに、東南アジアや中東やアフリカなど、いわゆる発展途上国の内乱があります。一つの国として統一できず、いつまでも内戦が続いています。昔の部族的・民族的な対立、あるいは宗教間の対立からくる内輪もめです。あのような状態では破壊はあっても、何かを生産するということはとてもできるものではありません。学校の勉強も毎日の仕事も農業も落ち着いてできるような環境にはありません。

イエスは言われました。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。悪霊によって悪霊を追い出したのではなく、またそうした内輪もめをしているのではなく、反対にはっきりと悪霊に対立する神の霊によってこの人を癒したのだと言われたのです。そしてその勝利こそ、神の国の到来を示しているものでした。「神の国はあなたがたのところに来ているのだ」。口語訳聖書では「すでに来たのである」と「すでに」という言葉を挿入して強調しています。主イエスの宣教の主題は神の国の告知です。宣教の初めにはイエスは「神の国は近づいた」と言われました。そして今それがあなたがたの上に来ているのだと言われたのです。今は悪霊に支配された時代ではなく、神の霊が支配する時代、その時代がイエスにおいて到来し、この病める人の癒しにおいて具体的に現されたのです。

わたしたちは「主の祈り」の中で「み国を来たらせたまえ」と祈りました。そのように神の国の到来を待ち望み、そのために祈り続けています。他方ではみ国はすでに来たことをここで示されています。信仰者の生涯は、この「すでに来た」という一面と「まだ来ていない」という時の間、その二つの時に挟まれた細い道を歩む生涯なのです。確かに今もこの世界には貧しさがあり醜い争いがあります。わたしたち個々の生活にもさまざまな問題があり悩みや不安もあります。けれどもこの病める人をいやし、神の霊で悪霊が追い出されたように、すでに神の勝利が実現しています。その力と恵みにわたしたちはすでに捕えられているのです。今も「み国を来たらせたまえ」と祈るのは、この勝利の実現に基づいた祈り・願いなのであり、それゆえに絶えず目覚めた者として神の全き勝利を確信している者として、明日を生きていくのです。

今日でもさまざまな病があり苦難があります。またそれと共に迷信や偏見などがはびこり、いっそう重荷を負う者を苦しめることがあります。しかし「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と主イエスは言われ、わたしたちの重荷を迷信共々取り払ってくださいました。その救いによって、混乱でも分裂でもなく、この癒された男のように一人の統一した人間へと回復してくださったのです。受難節にあって、このすでに到来している神の国の力を信じつつ歩んでいく者でありたいと願います。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

受難節第2_2021年2月28日配信