一コリントの信徒への手紙12.12~26 (2018.7.22)
聖書が教会について語るとき、そこにはいろいろな言い方がなされます。たとえば教会とは「新しいイスラエル」。旧約の民イスラエル、彼らには契約の民としての栄光とそれに応えきれなかった限界がありました。それに代わりイエス・キリストに導かれるキリスト者たちには新しい契約のもと、旧約の民とは比べることもできないほどの大きな恵みが与えられています。この神の国を目指す信仰者の群れを「新しいイスラエル」と呼び、これがすなわち教会であるといえます。他にも「ぶどうの木」としての教会、あるいは「聖霊の宮」としての教会などもあります。今日の箇所で述べられている「キリストの体」としての教会も、教会とは何かを語る場合の代表的なものと言ってよいと思います。
「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」。これが「キリストの体」としての教会です。確かにわたしたち一人ひとりの体は、いろいろな部分から成り立っています。足のつま先から頭のてっぺんまでいろいろあり、それぞれ独自の働きをしながら、あわせて相互に関連し合っています。先日、わたしは毎年一回の定期健診を行ってきました。まだ結果は届いていません。2時間ほどの検診ですが、それでも15ほどの検査項目がありました。オプションの検査を加えれば、さらにその数は増します。それほどわたしたちの体は、多くの部分から成り立っています。
そのように「体は一つでも、多くの部分から成り」とありますが、それはこのように体にはいろいろ多くの器官、肢体があるということだけではなく、当然のことではありますが、その多くとは、それぞれ違った部分でもあるということです。つまり多様性ということです。体には目があります。足、手、耳、口もあります。しかも見える場所だけが体ではありません。見えない部分もあります。やはり検診の話ですが、わたしは超音波検査で腎臓とか膵臓など内部をもチェックしてもらいました。そのように体には実に多くの部分があり、同時にそれらは多様な働きをしている、そのような多くの部分から成り立っているのです。
教会がキリストの体であると言う場合、その部分とは教会員一人ひとりを言い表しています。ある人は目、別の人は耳ということです。ここコリント教会の弱点の一つに、分裂、仲間割れありました(1.10、11.18)。今日の箇所でもそれが指摘されています。「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」がそれです。そこで聖書はこう述べます。「足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか」。ここでのカッコの部分、こうした遣り取りに似たことが実際コリントの教会の中であったのか、従ってこれを聞いて思い当たる人々がいたのかもしれません。それともまったくパウロの創作かとも想像します。
実際、体はわたしたち自身が意識していなくても互いに影響しながら活動しています。紀元前5世紀のローマの昔話に次のようなものがあります。昔々、人間の体が今のように一致しておらず、各部分が自分の主張だけをしていた頃、胃袋以外の部分が自分たちは胃袋のために食べ物を供給する労苦を払わねばならないのに、胃袋は怠けていて、自分たちが供給する物を受ける以外何もしないということに憤慨しました。そこで不満分子たちは共謀して、手は口に物を運ばない、口は出された物をくわえない、歯は何も噛まないことにしました。そのようにして胃袋を飢えによって屈服させようとしたのですが、かえって彼ら自身も衰弱してしまいました。この事によって胃袋もまた果たすべき務めを持っているのであり、なるほど食べ物を受けはするが、同時にそのおかげで他の肢体を養い、消化することによって血液をあらゆる部分に送り返して、体全体の生命も健康も維持されているのが明らかになったという話です。この聖書に関連して比較的よく聞かれる話です。
「そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう」(18-19節)。わたしたちの体には多くの部分があり、しかもどれ一つ同じ働きをしてはいないように、キリストの体としての教会、そこに連なる一人ひとりもまた固有の存在として、独自の働きをなしながら全体に連なっています。多様性と一体性です。教会にはさまざまな信仰者がいる、またいなくてはならない。しかしその多様性はバラバラになる多様性ではなく、キリストの体という一体性につながる多様性なのです。「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自らの愛によって造り上げられてゆくのです」とエフェソ書が語るとおりです(4.16)。
人間の体がそうであるように、各部分は互いに関係し、しかも弱いところ、苦しんでいる部分があるならば、なおさら全体で支え合おうとするように、キリストの体としての教会、そこに連なる一人ひとりも同じように互いに配慮し、いたわり合おうとします。教会の中には多くの高齢者がいます。病気の人々もいます。介護を必要とする家族もあります。またいろいろな悩みや困難を抱えている人もいます。そうした人々が孤立することなく、互いに祈り合いながら、具体的な手を差し伸べることにより、全体の働きへとつなげていく。まさに「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」。それがキリストの体としての教会なのです。
人間の体はわたしたちが自覚していても自覚していなくても、このように互いに関係し合い、助け合っているのですが、それならキリストの体という共同体はどのようにして互いを一致させるのでしょうか。それを示すのが冒頭の言葉です。「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです」。ここには洗礼が語られています。「皆一つの霊を飲ませてもらった」、この解釈はむずかしいのですが、古代からその一つとして聖餐を語っていると理解されてきました。つまりここには洗礼と聖餐という聖礼典が語られているのです。このように聖礼典がなされていることに基づいて、キリストの体という教会には分裂ではなく一致があり、しかもその一致は多様性の中の一致、さらに特に弱っている人々、困難の中にある人々が特別に大切にされる一致へと成長していきます。まさに「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」、そのような生き生きとした共同体がキリストの体としての教会なのです。