サムエル記下5.1~5 (2018.11.25)
水曜日の聖書研究会で士師記を読み進めているのは、毎週の週報に告知しているとおりです。先週は「サムソンとデリラ」の有名な箇所を読み、もうこの書物も残り少なくなりました。これが終わりますと次はわずか4章から成るルツ記で、穏やかな田園生活を背景とした牧歌的な物語となります。その後いよいよサムエル記に入ります。サムエル記上下巻、そして列王記上下巻、この4巻にわたるイスラエル史は、ダビデを中心とした王国史です。最初の王サウル、2代目のダビデ、そのダビデを頂点として、次のソロモン、そして王国の分裂と滅亡という一連の物語です。従って別の言い方をすれば、王国成立史というだけでなく、王国盛衰史といってもよいかもしれません。
今日の箇所に出てきますダビデ、彼はもともと羊飼いとして父の仕事を手伝っていました。農家の出身ということです。ところがサウル王のもとで戦士として登用され、活躍し始めました。その後めきめきと頭角をあらわしていきます。その有能さゆえに、今度はサウル王の嫉妬を招くこととなり、命さえ脅かされるようになりました。それゆえ他国(ペリシテ)へ亡命せざるをえなかったほどでした。それでもサウル王が戦死した後、ダビデは2代目の王となり、国を統一いたしました。そのように軍人であり、また王国を統一した政治家でもあったのです。それだけではありません。彼は音楽の才能にも恵まれていて、特に竪琴を巧みに奏でる奏者でありました。まだあります。詩人でもあったのです。ダビデの名を冠した信仰の詩は詩編の中にいくつあるのでしょうか。余りに多く数えることができないほどです。そうした才能の豊かさを聖書は次のように語っています。彼は「竪琴を巧みに奏でるうえに、勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、しかも、言葉に分別があって外見も良く」と書かれています(サムエル上16.18)。外見も良くとありますから、背も高くハンサムであったということです。まったくうらやましい限りで、そのひとつでも分けてほしいものだと思うばかりです。
もっともそうした良いことばかりではありませんでした。ダビデには多くの賜物が与えられていたと同じように、彼の生涯は同じように多くの罪や弱さにも覆われていました。ちょうど大きな樹木には当然その大きさに比例するように大きな影ができるのと同じです。彼はまず自分の心を支配することができず、そのため様々な過ちを犯しました。また妻や子どもたちとの関係もうまくいきませんでした。それが原因のひとつとなり、やがて彼の統一した王国が分裂することとなり、さらには滅亡へと至りました。
そのダビデが王として即位するのが今日の箇所です。この時代、またそれ以前のサウルが王であった時代でも、国が完全に統一されていたわけではありませんでした。大きくはヘブロンを中心とした南部のユダと、北部地方、これをイスラエルと呼んでいましたが、この二つに分かれていました。ダビデは南のユダの出身で、この時点ではすでに南のユダの王として即位していました(2章)。今日の5章では北部のイスラエルも統一した様子が描かれています。イスラエルの全部族はヘブロンのダビデのもとに来ました(1節)。このイスラエルとは従って南のユダ地方ではなく、それ以外の北の地域のことであり、そこの諸部族の代表ということです。彼らはダビデに言いました。「御覧ください。わたしたちはあなたと骨肉です」。イスラエルは12部族など様々な部族によって分かれてはいましたが、それでももともとはアブラハム、イサク、ヤコブを父祖とする同じ民族でもあります。それを骨肉の関係と言っているのです。さらに彼らは言いました。「これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と」。そこでダビデは主の御前に彼らと契約を結び、長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王としました。ここに南北全イスラエルを統一する王ダビデが誕生いたします。
王の即位に際し、「油を注ぐ」という言葉が出てきました。ヘブライ語でマーシャハと言い、メシアと関係する言葉です。メシア(ギリシア語ではキリスト)とは油注がれた者ということで、後の主イエスを指しますが、王として立てられたダビデもまた油注がれた者だったのです。彼は30歳で王となり、40年間王位にありました。7年6か月間は南部のヘブロンでユダの王となり、33年間はエルサレムで北のイスラエルとユダ、すなわち全土を統治したのでした。
その王となるダビデに対し、彼の働きは次のように記されています。「主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』」。ここには二つの働きが記されています。一つは民を牧する。牧するというは、羊や山羊の世話をするということで、そのような細かな配慮をもって人々を導くということでしょう。いわゆる羊飼いのような側面です。もう一つは指導者としての働きです。これは前の王サウルにも与えられた称号で、君主とも訳されています。人々を力でもって政治的、軍事的に導くということではありますが、しかしまったく自分の地上的な力というのではなく、神や預言者の指示に従うという側面も同時に求められていました。このように一方では羊を導く羊飼いのような細かな配慮をもちつつ、他方では君主・指導者として人々を導く、それが油注がれたダビデの働きとなりました。
この出来事は後に誕生するイエス・キリストを指し示すものとなっていきました。イエスが誕生したときに、東から来た学者たちに示された言葉は次のようなものでした。それは預言者ミカの言葉で、「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである」(マタイ2.6)。ここにも指導者という言葉があらわれ、羊飼いである牧者という言葉も出てきます。それが救い主イエス・キリストです。ただ主イエスはダビデの働きを受けつつも、それとは違った新しい命をもたらす牧者となり指導者となりました。それは人々と共に歩み、人々に仕え、最後はご自身の命さえ与えられた神の御子としての牧者であり、指導者だったのです。
次週からアドベントに入ります。それはまことの良き羊飼いであり、正義と公平と愛をもって導く指導者イエス・キリストをお迎えする準備でもあります。わたしたちは一足早くその到来を知らされた者として、悩みの多いこの世の中にあって救い主の誕生による希望と喜びと勇気を告げ知らせていかなくてはなりませんし、またそのように導かれてもいるのです。