マタイによる福音書4.1~11 (2020.3.1)
今日は通常でない朝を迎えました。新型コロナウイルス感染が世界中に拡大し、ここ日本でも日毎に変化していく中で迎えた朝だからです。特に人の多く集まる場所では警戒を要し、先週からは新たに学校が困難な状況に直面しています。教会もまた「感染リスクの高い環境」においては同じで、中にはこの朝の礼拝を中止したところさえ出ています。わたしたちの教会では、教団から出た注意を喚起する文書をもとにしつつ、独自の姿勢で今日の礼拝を迎えました。それはとにかく礼拝は守ろう、しかし教会の社会的責任という視点から予防態勢を整え、礼拝の時間をいつもより短くして負担がかからないようにする、また苦渋の判断でもありましたが聖餐式の延期を決定しました。後日安心できる環境の中でこの聖礼典を執行しようとの思いからです。今わたしたちに求められることは、自らの健康の維持と予防に努め、同時にすでに感染した人々の回復と感染症の蔓延という事態の収束を祈ることだと思います。
さてそうした中にあって、教会暦では先週の水曜日から受難節に入りました。日曜日を除いた40日間をレントの期間として歩んでいきます。その受難節第1の主日のこの朝、聖書はイエスの荒れ野の試みの箇所を取り上げました。ここにはイエスが直面した試練が三つ出てきます。いずれも人間は究極的にはどのようにして生きるのか、何に基づいて生きるべきなのかという最も根本的な問いが示されています。その第一はパンの問題、物質的な事柄でした。イエスは「40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた」とあります。そのように長く断食した後ですから、「空腹を覚えられた」といった生易しいものではなく、飢えに近いような状態のことです。そのときに「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言われたのです。こうした状況では、それまで自分が語ってきた主義主張とか信じてきた信仰でさえも、この厳しい飢えの前では力のないものになってしまうのではないでしょうか。ここまで追い詰められると、そこで差し出されるパンと交換してそれらを捨て去ってしまう危険にあるからです。「貧すれば鈍する」とのことわざのように物質と人間の精神・信仰の関係は古くから関係づけられていますが、それよりもさらに厳しい飢えの状態に置かれていたにもかかわらず、それでもイエスはここでパンを第一のこととせず、神の言葉を第一としたこと、それゆえにこの主の言葉に力があるのでした。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。これは食後のおなかが満たされた状態で語っているのではありません。確かに衣食住は生活の基本です。しかし人間はそれだけで十分というわけでもありません。イエスが「パンだけ」と言っているのは、そんな含みがあります。人が生きるということは、胃袋だけの問題ではなく、胃袋のところで止まってはならず、もっと深いところでは神の口から出る聖書の言葉を食することによって人間として生きるべきであることが示されたのです。
二つめの試練は神を試みること、つまり信仰的、宗教的誘惑です。悪魔はイエスを神殿の屋根の端に立たせ、ここから飛び降りてみよと言いました。なぜなら神は手を差し伸べて助けてくださるからだというものです。その根拠として悪魔は詩編を挙げました(91.11-12)。悪魔でも聖書を引用するという言葉を聞いたことがあります。身勝手な目的にです。そのように聖書の言葉も一歩間違えば自分を誘惑する言葉になってしまいます。もっとも神はわたしたちが足を踏み外して危険に陥らないよう守ってくださるという信仰は大切です。けれどもわたしたちは神の御心を第一にすべきと言いつつ、どこかで自分の都合を第一にし、そのために聖書を開き、また神を利用していることがあるのではないでしょうか。神中心と言いつつ、いつの間にか自分のための神となり、そのように聖書を読んでいく誘惑です。これはいつも、また知らず知らずにわたしたちに忍び込む誘惑です。主イエスはこの聖書に基づいた悪魔の誘いに乗って飛び降りることなく、それを拒否されました。まことの信仰は、神殿の上という目立った場所ではなく、隠れたところであらわされるものでもあるのです。
最後はこの世の権力という誘惑です。悪魔は「世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて」、もし自分を拝むならこれらをすべて与えるとイエスに言いました。人間は人々からほめたたえられる名誉や権力といった力への誘惑に直面すると、「主にのみ仕えよ」という普段は何でもないように思えたこと、またそれを守っていくことができたような生活の形が崩れやすいものです。ましてこれほどの栄華、地上の栄光を見せられたら、神以外の他の権威にひれ伏してでも、そしてそのために主に仕えることから離れるようなことあっても、それを手に入れたいと考える弱さもっています。けれどもそれにもかかわらず主イエスは「退け、サタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と言って、この誘惑を拒絶されました。この「仕える」は正確には礼拝に相当する言葉ですから「ただ主を礼拝せよ」という意味です。神以外のなにものも礼拝してはならない、伏し拝むのはただ主に対してのみ。まさに「十戒」の第一戒につながるもので、人間がどこを向いて生きるかの根源的な指摘でもあります。
わたしたちは信仰の言葉を用いても、実際は神ではなく自分の都合で動くような、また神の思いではなく自分の思いで語るようなことが大変多くあります。そのようにどこまでも自分中心に流れがちであるのを認めざるを得ません。神からの試練はそうした思いを取り除くために、ちょうど火で不純なものを焼き切ってしまうように必要なときがあります。詩編の中のある信仰者が「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」と告白していますように(詩編119.71)、信仰の生涯は試練の生涯でもあります。けれどもこの朝の聖書が示しているのは、そうしたわたしたちの試練の生涯とは、主イエスが荒れ野で悪魔の誘惑(試練)に打ち勝った、その勝利にあずかる生涯でもあるのです。これからの1カ月にわたる受難節において、この主イエスの勝利に支えられながら、わたしたちは歩んでいきたいと願います。
※教会員の方は以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。