聖霊を受けなさい   ヨハネによる福音書20.19-31   2020.4.19 

先週のイースター礼拝では、マグダラのマリアに現れたイエスの箇所を読みました。彼女は「わたしは主を見ました」とその喜びを他の弟子たちに伝えたところです。その続きが今日の箇所となります。今度は男の弟子たちに現れた復活のイエスの話です。ところが今日の箇所を読みますと、マリアの喜びは弟子たちにそのまま伝わっていなかったようです。冒頭に「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と書かれています。その日の夕方とは、復活の日の夕方です。マリアが体験したイースターの喜びは、すぐに弟子たちの力になったというわけではなかったのでした。

弟子たちはこの段階でも、ユダヤ人が自分たちを襲うのではないかとおびえ、家にこもっていました。しかも鍵をかけてまでです。よほどの恐れであり、気持ちの面でも内にこもっていたということでしょう。それはまたイエスに対しても心を閉ざしていたということであるかもしれません。それにもかかわらずイエスは家の中には入り、彼らの真ん中に立たれました。そして言われたのです。「あなたがたに平和があるように」。この挨拶の言葉が今日の箇所には3回も出てきます(192126)。平安、安かれとも訳せる言葉で、おそらくイエスはヘブライ語の「シャーローム」という馴染みのある言葉を使われたのでしょう。これは日常の挨拶の言葉でありますが、それと同時に深い宗教的な意味をも持っています。それは順境なときだけでなく、反対のさまざまな苦悩や矛盾のただなかにあっても、神から与えられる平和のことであり、神はあらゆる良きものをわたしたちのために用意しておられるというものです。「あなたがたに平和があるように」。この言葉によって、そのイエスの言葉に力を受けて、弟子たちは自分たち自らが閉じた扉の外へ、その鍵をあけて外へ出ようと導かれていくのでした。世の中に背中を向けていた弟子たちは、そこで新しい使命を与えられました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。家の戸にも、心の扉にも鍵をかけてしまっていた弟子たちが、もう一度外に目を向け、この世へと出て行くように導き出されていくのです。

わたしたちは日曜日だけがクリスチャンというのではありません。数年だけ信仰者というのでもありません。地上の生涯を歩み切るまで、わたしたちはキリスト者なのです。そのために弟子たちに聖霊が授けられました。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた」。「息」とはイエスによって与えられる聖霊の息吹です。それによって人は生きた者になり、さらには新しい人として歩み始めます。「聖霊を受けなさい」。まさに神の息であり、復活のイエスの力、復活のイエスご自身でもあります。それによって彼らは外に出て行く勇気が与えられていったのです。ここに証しをするキリスト者、闘う信仰者が生まれるのでした。

この遣り取りのとき、トマスはそこにいませんでした。他の弟子たちが復活の主に出会ったと言ったとき、トマスはこう言いました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。彼が「疑い深いトマス」と呼ばれるようになったのはそれゆえです。ここではその疑い深さがほめられているわけではありませんが、他方では自分の目でしっかりと確かめたうえで信じようとする態度は大切であると思います。昨今他人の言っていることをそのまま鵜呑みにしたり、人々のうわさに簡単に振り回されやすい傾向が見られます。高齢者を狙った詐欺やフェイクニュースなどが思い浮かびます。現代には二つの両極端な態度が見られます。不信と過信です。一方の不信とは誰も、何も信じられない、ひどいときには自分さえも信じられないといった態度であり、そうしたなかで自分がカチカチに硬直してしまって、誰にも自分を信頼して明け渡せない不信の心です。もう一方の過信とは自分を見失ってしまうほど誰かに(何かに)のめり込んでしまう状態です。詐欺まがいのカルト的な宗教もそうした過信(狂信)の一つと言えます。この不信と過信、実は同じ根から生え出た二つの両極端ではないでしょうか。その根とは恐れです。恐れや不安が一方では不信とかたくなさを生み出し、他方では何かに極端にすがりつこうとする過信へ導くのです。

そんなトマスのいる所へ復活のイエスが現れました。そして言われます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。するとあれだけ見ること、触ることを強調していたトマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と答えるだけでした。これはトマスの信仰告白であると言ってよいでしょう。信仰とは目で見たり、手で触れたりする必要はないということです。そしてイエスは最後に言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。

いったい見ることと信じることとはどのように関係しているのでしょうか。信じるには、見ることや手でさわることが必要なのでしょうか。「見ないのに信じる人は、幸いである」。信仰とは見て信じるのではなく、また見なければ信じられないというものでもありません。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」とペトロは言いました(1ペトロ1.8)。そのように見なければ信仰が生まれないというわけではありません。神から与えられるイエスの霊が、直接出会った弟子たちと同じ立場にわたしたちをも導くからです。このように聖霊は弟子たちと同時代へ、また同じ体験へとわたしたちをも導くのです。わたしたちもまた、それぞれの鍵をかけた部屋から外へと導き出されていくのです。「あなたがたに平和があるように」との祝福の言葉と共にです。

※本宣教はネット配信による礼拝として守られました。
 以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

復活節第2_2020年4月19日