神のしもべ ローマの信徒への手紙13.1-7 2020.8.23
ローマの信徒への手紙は、12章からキリストにおける新しい生活のあり方、つまり倫理に入りました。いかにして生きるべきかといった具体的な内容です。最初にその基となる礼拝の重要さが語られ、次に教会内での働きや交わりといった教会生活、そしてさらにはもっと広い地域社会や市民生活においてどう振る舞うかが述べられてきました。今日の13章に入りますと、さらに大きく国家の中のキリスト者、教会と国家についての話になります。
カール・バルトという神学者は、ここ13章の1節から読み始めるのではなく、12.21を13章の初めにもってきています。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」との言葉から始めているのです。そのような括り方で言うならば、もう少し前の17節からでも可能ではないかと思います。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『《復讐はわたしのすること、わたしが報復する》と主は言われる』と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』」。このような流れの中で、今日の箇所、すなわち国家の中に生きるキリスト者の勧めと読むことができます。
「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられてものだからです」。権威、これは権力、官憲といった訳でも可能です。それは国を代表する人々、その機関で働く人々です。近代のほとんどの国では、そうした権威は選挙などで公平に選ばれた人々によって占められています。それに対して古代ローマ帝国では、力や武力、金で得た権力がほとんどです。しかも支配者はキリスト教徒ではありませんでした。そういう権威者が神によって立てられたのだから、信仰者もその支配に従いなさいというのです。皆さんはこの言葉を聞いてどのように思われるでしょうか。政治にはさまざまな側面があります。良い面と同時に醜い面があり、不正は今日でも至る所に見られます。そんな権威であっても神に由来する権威なのだろうか。そのように受け取るべきなのだろうか。おそらくこの言葉の背景には、キリスト教徒やユダヤ教徒の過激派がいたのではないかと言われています。自分たちは神の国の子どもだ、それが異教徒であるローマに服従する理由がどこにあるのか。また彼らに神の子を支配する権利があるはずがないといった主張です。パウロはそうした主張が間違っていることを示しながらも、同時に今ある権威をまったく擁護しているわけでもありませんでした。
3節にこうあります。「実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です」。使徒パウロはローマの支配者によって数々の迫害を受けました。しかしまた支配者によって守られてもきました。使徒言行録の最後のほう、彼がエルサレムへ献金を届けに行ったとき、そこで暴動が起きました。巻き込まれたパウロは殴られ、殺されそうにもなりました。そこからパウロを保護したのはローマの兵隊でした。いわゆる権威者です。反面、彼は幾度も権力者によって牢に入れられています。支配者は必ずしも悪にだけに対して恐ろしい存在というのではありませんでした。最後はローマに囚人として連れていかれ、殉教したと伝えられています。そのときのローマ皇帝はネロでした。それにもかかわらず、このように言ったのは、自分たちはローマという異教徒の支配を受けず神の国の支配下にあるといって、国家そのものを拒否する原理的、過激的主張者を念頭においているからです。けれどもわたしたちは法律、警察によって、命、財産、それに強盗など犯罪から守られています。どのような国であっても、ある程度までは市民の善には無害で、悪を裁くからです。社会を混乱から守って秩序へ導き、人々を益するために立てられた神の制度であり、そういう意味では「神の慈しみの一つの表れ、慈しみから発した一つの御業」ということが言えます。
パウロは権威者(支配者)を「神に仕える者」とさえ呼んでいます。今日の宣教題である「神のしもべ」と同じ意味です。これはパウロ自らもそう呼んでいます(2コリント6.4)。信仰者でない、そのような支配者をこうした称号で呼ぶのは、神は教会だけでなく、歴史の、また世界の主であり、すべてを導いておられるとの信仰に立っているからではないでしょうか。旧約聖書においても、イザヤはバビロン捕囚からユダヤの民を解放したペルシア王キュロスに対し、「わたしの牧者」と呼んでいます(イザヤ44.28)。さらには「主が油注がれた人」とまで言っています(イザヤ45.1)。メシアということです。本人は信仰者でなく、そのように神に導かれている自覚がなくとも、神の目から見れば、まさに今日の聖書にありますように「神によって立てられた権威」なのです。
この箇所から国家とキリスト者(教会)の関係のすべてが、聖書全体の主張として語られているわけではありません。パウロの根底にあるものは、この世のものは皆すべて過ぎ去り、神の栄光と支配のみがとこしえに残るという終末的待望です。「御国が来ますように」との信仰です。その信仰のもとでは、国家の尊厳が語られると同時に、その限界も明らかにされます。国家といえども、神の国に比べれば一時的なもの、過ぎ去るものだからです。だからペトロとヨハネが支配者に捕えられたとき、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と答えたのでした(使徒4.19、5.29)。
キリスト者は一方では国家に対する敬意と服従を根底から惜しまない。それにもかかわらず、他方ではキリストに属する新しい人間として、また国籍が天にある者として、国家から、この世から、さらにはいかなる権威からも自由な、独立した立場に立ちます。そのような意味では、国は究極的な権威ではありません。まことの権威はただ神にのみあり、それに服従する中でわたしたちに示される良心に従い、何が正しいのか、何が間違っているのかを判断していくのであり、そうすることができるのです。
※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。