満たされた福音   ローマの信徒への手紙15.14-21   2021.1.17 

2年間にわたって読んできましたローマ書は、今日を含めて残り4回となりました。2年目(今年度)が新型コロナウイルスの影響によりいろいろ礼拝が制約を受けてきましたが、とにかくここまで読み進めることができました。ときどきお話ししてきたことですが、これは手紙と呼ばれてはいますが、今日わたしたちが手紙と呼んでいる(書いている)ものと大きく違っています。だいたいこのような長い手紙を書くことはありません。初めと終わりに挨拶が述べられていることでは確かに手紙の形式を備えていますが、内容としては神学論文、あるいは信仰の教科書に相当すると言ったほうが正確です。このような性格の手紙、今日の14節からは結びに入ります。それまでは手紙の本文としていろいろ述べられてきたのですが、ここ15.14からは「おわりに」として結ばれていくのです。

使徒パウロは冒頭の1章でも述べていることですが(この後でも再度述べている)、ローマには幾度か行きたいと願いながらまだ行ったことがありませんでした。その教会に向かってこれまでさまざまなことを語ってきました。そのあたりがコリントやガラテヤの手紙と違うところです。コリント教会などはパウロ自身の伝道活動から生まれた教会であり、そこでは何が問題となっているか、何が喜びであるかがよく分かっていました。そうした教会の現状に対応する形でそうした手紙は書かれています。それに対してローマ書はローマの教会がどういう状況なのか、コリントやガラテヤ教会ほどよく分かっているわけではありませんでした。もちろんだからといって福音が語られないわけではありません。

「兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています」。善意、知識、互いの戒め合い。これらはキリストの体である教会にとって基礎となるものであり、礼拝を通して神から与えられていくものです。さらには正義、真実等も加えることができるでしょう。聖霊によって与えられる賜物です。そのような賜物がここローマの教会にも十分に満たされていると確信していると言うのです。またときとして彼はこの手紙の中で少し言いすぎたと感じたのかもしれません。次の「記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました」がそれを裏付けます。それが具体的にどこを指しているのか分かりませんが、今筆を閉じるにあたり、少し言いすぎがあったと思ったのでしょう。それでもパウロはそれらの主張が決して自分のためとか、ローマの信徒を責めているということではなく、あくまで自らがキリストの僕として、神の栄光のために語ってきたことを述べています。

「それは、わたしが神からの恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです」。パウロ自身の働きは、ローマの人々を初めとする異邦人に福音を伝えることでした。パウロが「異邦人のためにキリストに仕える者」、いわゆるキリストから遣わされた異邦人の使徒として、自らはっきりと自覚しています。そしてここにもう一つ、「神の福音のために祭司の役」とあります。「祭司の役」、これは珍しい言葉で、新約聖書にはここにしか出てきません。祭司とは旧約時代に重要な働きをなした人々で、民の罪の赦しのため動物などをいけにえとして神にささげる役割を担ってきました。けれどもイエス・キリストが世の罪を取り除く神の小羊として十字架で自らを献げられることにより、もはや動物のいけにえは必要でなくなりました。それでも旧約以来の精神は教会においても踏襲されてきました。それが今ここで述べられている「祭司の役の務め」であり、それによって「異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となる」という表現です。ここには明らかに旧約の贖いの儀式が背景となっています。パウロはそのように信仰者を整える祭司としての働きをも自覚していたのです。だからこのように言うことができたのです。「キリストに代ってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(2コリント5.20-21)。

祭司の務めは使徒パウロだけではありません。ローマの信徒を含め、すべての信仰者もまた祭司だからです。ペトロは次のように語っています。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家を造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」(1ペトロ2.5)。「神に喜ばれる霊的ないけにえ」、それはわたしたち信仰生活を指し示したものであり、同じローマ書でパウロが「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」に通じるものです(12.1)。新約にもいえにえがあるのです。しかしそれは死んだ動物ではなく、生けるいけにえとして、信仰者一人ひとりが礼拝を通してキリストの御言葉に聞き従い、兄弟姉妹と共に生きる共同体を通して実現する供え物なのです。

そのために神はさまざまな賜物を与えられました。「キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました」とあります。「言葉と行い」、人が信仰に目覚めるための言葉というものは、人間味のある柔和なものであると同時に、力がなければなりません。塩で味付けられた快い言葉と聖書にあるようにです(コロサイ3.6)。その言葉にはまた行動に結びつきます。具体的な交わり・連帯につなげていくものです。そのような人格的な交わりがときとして驚くべき出来事や感動を与えることがあります。そこから奇跡と呼ばれるものが起きたとしても、決して不思議ではありません。わたしたち人間は不完全であり、破れ多いものであることは変わりありませんが、それゆえに何よりもわたしたちの言葉と行いは神の霊によって覆われ導かれなくてはならないのです。使徒パウロの宣教を生かしたもの、そして今日のわたしたちの信仰者としての歩みを支えるものは、聖書の言葉とそこから出る行動、そして何よりもそれらを豊かに生き生きと用いることができるようになるキリストの恵み、神の霊に満たされること、その確信に基づいて歩むことが重要なのです。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

降誕節第4_2021年1月17日配信