ルカによる福音書9.10~17 (2019.3.3)  

 この朝読みましたパンの奇跡、いわゆるイエスが5千人に食べ物を与える出来事は、よほど弟子たちにとって印象的だったのでしょう。通常の記事は共観福音書を中心に構成れているのですが、この記事はめずらしく4福音書すべてに出てきます。それだけではありません。ここは5千人の奇跡ですが、さらに2箇所、今度は4千人に食べ物を与える奇跡がマタイとマルコに出てきます。そこでは7つのパンと少しばかりの魚から始まった話です。従って福音書には全部で6回、このパンと魚の奇跡が出てくるということです。  

 食べ物に恵まれる、反対に食べ物が足りない。それは古代聖書の時代だけでなく、現代のわたしたちの国においても、今日の世界においても同じことが言えるのではないでしょうか。一方では飢餓に苦しみ、栄養失調で大人になることなく死んでいく子どもたちがいます。それはこの日本でも違った形で深刻化しています。今話題になっている映画に「万引き家族」がありますが、これなどもそうした問題を扱っているのではないでしょうか。他方では肥満に悩む人々がいます。わたしは肥満ではありませんが、コレステロール値が高めで、毎年の検診では必ず指摘を受けています。あるいは余った食べ物の廃棄も、今日の社会の病める部分を映し出しているように思います。それは政治・経済のシステムがそうさせるものでありましょうが、同時に個人の倫理も問われる問題だと言えます。  

 そうした中、イエスはこの5千人の食べ物の奇跡を通して、わたしたちに何を語っておられるのでしょうか。イエスは弟子たちを共にベトサイダという町に退かれました。宣教の旅に派遣された弟子たちが帰って来たので、彼らの労をねぎらうためだったからかもしれません。ところが群衆がそれを知って後を追ってきたので、イエスはさらに神の国について話をしました。やがて日が傾きかける時刻となりました。そこで12弟子がイエスに言います。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう」。これは妥当な判断であり、弟子たちが群衆を気遣ったよい提案だったと思います。ところがイエスはそうしなさいとは言われませんでした。そこから別の新たな出来事を起こそうとされたのでした。イエスは言われました。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。これは弟子たちにとって意外な言葉であったにちがいありません。なぜなら彼らが持っていた食べ物といえば、パン五つと魚二匹であり、群衆の数といえば男だけで5千人もいたからです。  

 「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。この「あなたがた」という言葉は強調されたものです。原文のギリシア語では、通常は主語が出てきません。動詞はすべて主語によって変化しますから、動詞を見れば主語が「わたし」なのか「あなた」なのか、それとも「彼ら」なのかが分かるからです。そこにあえて人称代名詞を入れる場合には、強調という側面が出ているということなのです。この場合がそうです。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。弟子たちはどう受け取ったでしょうか。「えっ、わたしたちが……」、「このわたしにもできるのですか」といった反応を引き起こす、そのような強調だったと思います。。確かに現実に彼らが持っていたのはパン五つと魚二匹でした。「これだけしかありません」と否定形を使うのは、人によって様々でしょう。性格や人生観によって違うかもしれません。皆さんはこれまでどのような言葉で、自分を言い表してきたのでしょうか。否定形あるいは肯定形……。もちろん「これだけしかありません」という言葉を使うか使わないかにかかわらず、弟子たちにとって少ない持ち物であることは事実でした。イエスはそうした現実を知りながら、それにもかかわらず言われたのでした。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。わたしたちは自分で思っているより、実際には多くのものを持っているのではないでしょうか。持つものが少なくても、いかにできることが多いのではないでしょうか。  

 言うまでもありませんが、それは自分の力によるのではありませんでした。イエスは人々を座らせてから、「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせ」ました。このようにしてイエスが食べ物を祝福して人々に与えられたのです。すると一同は食べて満腹しました。しかも5千人に分け与えても、なお余りがありました。それが最後の「そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」との言葉です。  

 注意深く読みますと、イエスが弟子たちを通して人々に食べ物を与えられたとき、4つの動作が取られていることに気づきます。パンと魚を「取る」、「祈りを唱える」、「裂く」、そして「渡す」という4つの動作です。今週水曜日は「灰の水曜日」で、いよいよ受難節に入ります。その行き着くところはイエスの十字架ですが、直前に最後の晩餐を弟子たちと共にされました。そのときも同じ動作を取っておられます。パンを取り、祈り、裂き、渡すという動作です(ルカ22.19)。また復活後にエマオで弟子たちと食事をされたときも、やはり同じでした。そこでは食事の後、人々の目が開けて、自分たちの目の前におられる方が復活のイエスだと分かりました。そのためこの5千人に食べ物を与える奇跡は、同時に聖晩餐の恵みを示していると多くの研究者が指摘しています。  

 それをヨハネ福音書ではさらに豊かに展開していきます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われ、その「永遠の命に至る食べ物」とはご自身であることを示されました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(6章)。イエスはそのようにパンを与えられる方でありつつ、またご自身が「命のパンである」と言われたのです。だから次のような言葉へとつながっていったのでした。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたその人の内にいる」(6.54-56)。  

 「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません」。わたしたちはもはやこのような消極的な言葉を使う必要はありません。確かにわたしたち自身としては、できることに限りがあります。けれどもわたしたちはそうであっても、神に限りがあるわけではありません。信じる者には主にあってすべてが可能だからです。自分の持ち物の少なさ、自分自身の小ささを嘆くのではなく、そのような自分に注がれているキリストの大いなる恵みの大きさ、豊かさに目を注いで、勇気と確信をもって歩んでいきたいと願います。