アモス書5.21~24 (2019.8.4)
本日は教会暦では聖霊降臨節第8主日ですが、もう一つ「子どもの日・花の日」と同じような教団の行事としては「平和聖日」でもあり、毎年8月の第1主日に定めています。1960年代から70年代にかけては、まだ戦争を経験された牧師が多くおられました。その戦争の反省と「世の光・地の塩」としての教会はどうあるべきかという福音宣教の視点から、この時期数々の方針・方策を打ち立ててきました。大きなものとしては教団議長であった鈴木正久牧師(西片町教会)の名で出した「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(戦責告白)があります。本日の平和聖日もこうした流れの中から制定されました。8月だけ平和を語ればよいというわけではありませんが、特にこの月は初めて核兵器が使用された月であり、終戦を迎えた月でもありますから、必ずしも教会だけというわけではなく、国全体においても、さらには世界の至る所においても様々な思いをもって迎えられているのではないでしょうか。
紀元前8世紀のイスラエルにおいて、預言者アモスは人々の信仰のあり方、そこから生まれる誤った態度を厳しく指摘しました。それを簡単にまとめて言うならば、人々は神に向って礼拝をささげる。しかし他方、社会的な生活は不正に満ちていたのでした。そうした指摘を一つ前の5章から拾い上げてみますと、たとえば7節「裁きを苦よもぎに変え 正しいことを地に投げ捨てる者よ」とあります。また10節では「彼らは町の門で訴えを公平に扱う者を憎み 真実を語る者を嫌う」と語ります。さらに12節から13節にかけてアモスはこう言いました。「お前たちの咎がどれほど多いか その罪がどれほど重いか、わたしは知っている。お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り 町の門で貧しい者の訴えを退けている。それゆえ、知恵ある者はこの時代に沈黙する。まことに、これは悪い時代だ」。
このような社会的な不正を行いながらも、そこで守られる礼拝にはどれほどの意味があるのだろうかとアモスは問いかけるのでした。それが今日の箇所の冒頭です。「わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける」。イスラエルの民にとって大きな祭りとは、主イエスもそのため都エルサレムに上られたような除酵祭(過越祭)、七週祭、仮庵祭で、今日の教会で言うならばクリスマス、イースター、ペンテコステに相当するものだと言ってよいでしょう。そうした人々が祝う祭りを憎み、退けると主は言われたのです。さらにそこで神に献げられるものも、神は受け入れないと言われます。「焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物等」がそれです。ここで使われている言葉はすべて否定的な言葉ばかりです。憎む、退ける、喜ばない、受け入れない、顧みない。
退けられたのは献げ物だけではありません。賛美の歌声や賛美の演奏さえそうでした。「お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない」。これは今日における礼拝の姿です。そこで献げられる賛美の歌声を「騒がしい」と主は言われました。奏楽にあたる琴の音も神は聞かないと言われました。本来は神に呼ばれ、その招きのもとでささげる礼拝を神は受け入れないと言われたのです。その理由は社会における悪しき振る舞い、先程の5章で指摘されたことによるものだったのです。
そこでアモスは言うのでした。「正義を洪水のように 恵みの業を大河のように 尽きることなく流れさせよ」。これこそあなたがたに必要なこと、あなたの礼拝を内容豊かにするものだと励まします。「洪水のように」とは雨の多い日本では余りありがたくないイメージですが、乾いた大地のパレスチナではとうとうと流れる豊かな大河のイメージを与えるものなのでしょう。ここに使われている「正義」と「恵みの業」、これはアモスだけでなく旧約聖書全体のキーワードです。そして多くは並行して出てきます。やはり同じ6章の12節に「お前たちは裁きを毒草に 恵みの業の実を苦よもぎに変えた」とあるのも同じです。わたしはかねて「恵みの業」という訳に違和感を持っていました。ですから新しい訳ではどのような言葉に訳されるか興味をもっていました。昨年発行の聖書協会共同訳はわたしと同じような理解だったのでしょうか、やはりこの言葉を採用せず、「正義」としました。これは以前の口語訳聖書と同じです。するともう一つ前の「正義」言葉はどうなったのかと言いますと、こちらを「公正」としています。口語訳では「公道」と訳していました。このようにどちらも意味は非常に似ていまして、神の恵み、救い、そこから生まれる人間の生き方というような意味合いです。ただもう少し厳密に言いますと、最初の「正義」は多くの英語聖書がジャスティスと訳しますように、その恵みから生まれる人間どうし、社会の関係ということが言えます。それに対して、「恵みの業」は原意が「義」であるように神との関係、そこから生まれる救い、恵みを示しています。
今年は戦後74年になりますが、その第二次世界大戦が終わって40年後、すなわち1985年にドイツのヴァイツゼッカー大統領が議会で有名な、そして感動的な演説を行いました。「荒れ野の40年」というタイトルの演説です。言うまでもなくこのタイトル、モーセによって率いられたイスラエルの40年にわたる苦難の旅を背景とした、きわめて信仰的な内容を含んでいます。皆さんの中にも記憶のある方がおられるのではないでしょうか。わたしもその一人で、その演説のライブ録音をラジオのドイツ語講座で解説と共に聞いたものでした。その中で有名な一節、「過去に目を閉ざす者は、現在が見えなくなってしまう」があります。過去との絶えざる対話から現在と未来が生まれるというものです。過去を変えることはできない。それをなかったことにすることもできない。「大切なのは、違った歴史を語るのではなく、この歴史を違った仕方で語ることである」。これは宗教改革500年に際して、カトリック教会とルーテル教会が出した「争いから交わり」の一節ですが、まさにこれと共通する考えです。現在の欧州における実に困難を伴う難民受け入れはこうした視点における解釈の一つだと思いますし、日本のアジアからの人々の受け入れも経済的な視点だけでなく、こうした歴史的な視点がいっそう強まればと願っています。この演説は岩波ブックレットで新版として出版されています。500円ほどの価格でもありますから、ぜひ若い人にはこの夏休みにでも読んでほしいと思いますし、彼らの薦めてほしいと願います。
「正義を洪水のように 恵みの業を尽きない大河のように 尽きることなく流れさせよ」。わたしたちは主イエス・キリストを通して神から溢れるばかりの恵みをいただいています。その恵みを自分のところでとどめてしまのではなく、さらに家族へと、隣人へと、地域へとあたかも洪水のように、また尽きない大河のように流れさせることが大切なのではないでしょうか。それがまた礼拝をいっそう豊かにするのです。