ローマの信徒への手紙7.7~25 (2020.1.26) 

ローマ書もいよいよ中心部分へと入っていきます。わたしは若い頃からここ7章がとても好きでした。好きという言葉には少し語弊ごへいがあるかもしれません。ここから大きな影響を受けてきたといったほうがよいかもしれません。あたかも自分を映し出す鏡のように、この箇所に親しんできたのです。それは今でも変わりありません。たとえば15節の言葉、「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」。あるいは18節から19節の言葉、「善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」。自分のすること、行うことにはある責任が伴います。それでも深いところでは、「自分のしていることが分からない」、そのような行いがあるということを指摘される思いです。またここには意志という言葉も出てきます。わたしは比較的意志の強い人間だと自認していましたが、とんでもない、自分は何と意志の弱い、意志薄弱な者であることも指し示されるのです。

ここ7節から25節の間には「わたし」という言葉が35回出てくると言われています(すべて日本語に訳されているわけではないが)。もちろんその「わたし」とはこのローマ書を書いた使徒パウロのことを言っています。ただもう少し厳密には、その「わたし」とはどのような「わたし」なのでしょうか。古くからその解釈において、いろいろ論議されてきました。ここでの「わたし」とは、クリスチャンになる前のパウロ自身、いわゆる自伝的な「わたし」と見る人々がいました。反対にこの「わたし」とはパウロ個人だけを言っているのではなく、全人類を含めて「わたし」と言っているという見方もあります。さらにはここでの「わたし」とは、信仰者になる前の状態だけを言っているのではなく、信仰者となって後の、すなわち地上の生涯を歩むすべての状態を言うという捉え方もあります。こうした理解は主に宗教改革者が主張したもので、わたしもこれに納得しています。彼らが言う信仰者とは「義人にして同時に罪人」であるゆえに、それは信仰以前であろうと以後であろうと、全生涯を含んでいるというものです。そのような意味から、ここで語られている「わたし」とは、現在のわたしたち一人ひとりにもすべてあてはまる言葉だといえます。

ここでは神の前における人間を理解するうえで、幾つかの大切な言葉が出てきます。一方では神から与えられた聖なる律法があり、その具体的なものとしておきてがありました。「むさぼるな」との戒めをはじめ「ウソをついてはならない」等など十戒を中心とした掟です。それに対する人間、そこには二つの力が働いています。一つはその神の律法を喜び、守ろうとする意志、守りたいとする意欲、それをパウロは「内なる人」と呼んでいます(22節)。けれども人間にはもう一つの力が存在しています。その部分を「肉の人」と呼んでいます(14節)。この肉とはビフテキが好きな人という意味ではありません。あるいはおなかに脂肪がついている太った人ということでもありません。「肉の人」とは聖書特有の言葉で、生まれながらの地上的な存在、弱くもろい、それゆえに朽ちていく部分を指した人間のことです。ただし肉は罪と同じではなく、直接関係があるわけではありません。それでも罪の影響をもっとも受けやすいということはいえます。そして神と律法、その前に立つ人間の間に入りこむのが罪です。その罪によって、肉なる人間が誘惑され、混乱をきたし本来は命に導くはずの律法・掟さえも違った方向へと人を導いていくのです。それを語っているのが11節です。「罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです」。まるで創世記の中の蛇に欺かれるアダムとエバを思い浮かべるような言葉です。

ここに矛盾した人間が現れます。それが冒頭でも読みました15節にある言葉です。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」。ここには二人のわたしがいます。すなわち自分が望んでいること、こうしよう(したい)と思っているが、それを実行しない、いや実行できないわたし。もう一人はまったく反対で、望んでいることではなく、むしろ憎んでいることを行うわたしです。憎みながら行っているということでしょうか。神から与えられた多くの教え、善をなそうという意志はあるのですが、実際にはその逆で望まない悪を行ってしまう自分。その「わたし」を一つの家にたとえるならば、そこの主人は誰なのでしょうか。自分の主人は誰なのか。最近、高齢化の問題の一つとして、車を運転する人がアクセルとブレーキを踏み間違うという事故が頻発しています。1台の車を一人の人間とするならば、そこには前と後ろにと別々に進む動きがあったと考えることもできます。あるいはもっと昔ならば、2頭の馬車を運転する御者を思い浮かべることもできます。その2頭がいつも一緒に同じ方向へ行くならば問題がありません。ところが実際にはそれぞれ逆の方向へと向かっているのです。1頭は神の方に向かっていきたい、善の方向へと進もうとします。ところがもう1頭の馬はそうはさせまいと、悪の方向を目指します。この2頭の馬を御するのが、他ならぬわたし自身であり、内にはそのような2頭の馬がいるのです。そのためわたしは引き裂かれ、そこにはいつも矛盾があり、苦悩がつきまといます。

「そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(17節)。こうした言い方は世間に通用するでしょうか。「それはわたしではない。わたしの中の罪の仕業です」。まるで小説に出てくる心理的描写のようです。それは20節にも述べられています。「もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。このようにわたしの中には二つの相反する力が働き、そのためにわたしは苦しみ、分裂を引き起こしているのです。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」。このパウロの有名な言葉は、こうした二つの力の板挟みになった苦悩を述べたものです。文語訳聖書では「ああわれ悩めるひとなるかな」と訳し、文学調で美しくまるでハムレットのような苦悩に聞こえますが、この状態はもっと悲惨で、人間の本質的などうしようもない矛盾を嘆いたものなのです。

それでも最後に言うのでした。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」。ここではキリストの働きや恵みについては記されていませんが、それらをすべて含んだものとして、この主イエス・キリストの名を最後に賛美して語ることができるのです。わたしたち人間が本質的に抱える闇、どうしようもない矛盾、それを覆い、それを癒すのはこの世のどこを捜しても見いだすことはできません。それはただ神の独り子、この世に肉の姿を取り、僕として歩まれたこの方以外には救いはないのです。わたしたちはそのキリストを信じ、キリストから決して離れることのないよう、これからも歩み続けていくのです。

※教会員の方は以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

降誕節第5 2020年1月26日