信仰による義   ローマの信徒への手紙10.5-13    2020.6.21 

わたしが現在読んでいる本の一冊に、「翼をもつ言葉」という神学書があります。説教について書かれた本です。これは米国メソジスト教会の監督が書いた本で、非常に刺激的で2度目に入っています。その中で、教会は世が聞いたことのない音を立てなくてはいけないといったようなことが書かれていました。説教者はできるだけ分かりやすい話を心がけ、新聞やテレビなど一般に使われている言葉や話題を用いて話そうとします。それはそれで必要な面はありますが、教会の使命は世の人々が聞いたことのない音を発する、そのためには御言葉に忠実でなくてはならないといった内容です。これがなかなか難しいのですが、重要な点だと思っています。

今日の宣教の題は「信仰による義」としました。これを表の看板に掲げるとき、道行く人はどのように受け取るだろうかと考えました。義という言葉はわたしたちの日常の生活では馴染みがありません。これは英語でも同様で、ライト(right)が頻繁に用いられているのに対し、ライチャス(righteous)という日常的でない言葉が使われています。

パウロは今日の箇所で、「律法による義」と「信仰による義」を対立させています(5-6節)。「律法による義」とはイスラエルの人々が追い求めていたもので、いわゆる律法を行うことによって得られる救いです。けれども旧約聖書の歴史を見れば分かりますように、人は律法を守りとおすことはできません。むしろ律法に背くことのほうが多く、あるいは表面的に守っているようなそぶりをする偽善が生まれるだけでした。それが罪ある人間の現実でした。

それに対して「信仰による義」がもう一方で語られます。これはキリストを信じる信仰の義、キリストに基づく義であり、行いに基づくものではありません。欠けの多い人間に対し、一方的にキリストがわたしたちに恵みとして与えてくださったものです。それを次のような旧約の言葉を用いて言い表しています。「『心の中で、《だれが天に上るか》と言ってはならない。』これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、《だれが、底なしの淵に下るか》と言ってもならない。』これは、キリストを死者の中から引き上げることになります」。なかなか面白い言い方です。つまりわたしたち人間はできもしないこと、不可能なことを企てる必要はないというものです。むしろキリストご自身が天に上られたのであり、また陰府にまで下り、そこから復活されたことに目を向けなさいというのでした。そのようにキリストがわたしたちの救いのために、すべてを備えてくださったからです。

「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」とは、そのようなことをまとめたものです。わたしたちはできないことを、偽ってまでして行おうとするのではなく、キリストがわたしたちのところに近づいてくださり、恵みを与えてくださったのです。そこでさらに続けます。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」。これは当時の洗礼式における信仰告白だと言われていますが、それだけでなく信仰者のいっさいを支える根本的な信仰の内容でもあります。ここには律法に基づく行いではなく、口と心、また公に言い表す信仰告白、そのように信ずる信仰の大切さが述べられています。それらをまとめたものが、この言葉です。「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(10節)。これがイスラエルの誤った「律法による義」に対する「信仰による義」なのです。

そこには人間の誇りはありません。それは必要ありません。誇れるのはただ神のみです。ところがイスラエルの追い求めた「律法による義」には、いつも「自分の義」への誘惑がありました(フィリピ3.9)。信仰者として神を誇り、神を賛美しつつも、そのような自分の信仰や自分の敬虔さをも誇りとする誘惑があったのです。福音書にこんな話が出てきます。自分は正しい人間だとうぬぼれ、他人を見下している人々への戒めとしてです。二人の人がエルサレムの神殿に上って行きました。一人はファリサイ派の人、もう一人は徴税人です。ファイサイ派の人はこのようなことを祈りました。「神様、わたしはほかの人たちのように不正な者でなく、またこの徴税人のような者でもないことに感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」。ところが徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせずに言うでした。たった一言、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。そこでイエスは言われました。義とされたのは、この徴税人であって、ファリサイ派の人ではない(ルカ18.9以降)。

ここにも「信仰による義」と「律法による義」が出てきます。自分の義を立てる者にはうぬぼれがあり、そのぶん人への見下しが必ず伴います。あるいはまた反対に、他人へのねたみが生まれます。神殿において神を賛美し、神に祈っているさ中にあってすら、実は神ではなく、あるいは神と共に自分をも賛美している、そんな人間の姿が示されています。「誇る者は主を誇れ」とありますように、わたしたちは自分ではなく主を誇るものです。自己推薦する者ではなく、主から推薦される者こそ、まことに受け入れられる者なのです(2コリント10.17以降)。パウロが別の箇所で、「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(ガラテヤ6.14)と語るとおりです。

だからこそ、救いと恵みを受けるのには何の分け隔ても生まれません。わたしたちがどのような者であろうと、どこの出身であろうと、何ができるか何かできないかにかかわらず、等しく与えられるのが信仰による義だからです。すべてキリストの名を呼び求める者は、だれでも救われる。なぜならキリスト・イエスはあなたの近くに、あなたの口、あなたの心にあるからです。遠くへ捜し求めに行く必要はありません。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

聖霊降臨節第4_2020年6月21日