ヨセフの夢   マタイによる福音書2.13-23    2021.1.3 

新しい年2021年を迎えました。カレンダーや手帳が新しくなり、各地域やそれぞれの家庭では新年の諸行事が、制約つきであっても行われています。教会でも週報のナンバーを1と記しました。ただしそれとは別に、教会暦としては昨年と今年の間には断絶はなく継続しています。それを表しているのが、今日が降誕節第2主日であることです。イエスの誕生であるクリスマスにまつわる出来事が、さらに続いていくのです。

クリスマスの後イエスとその家族はどのような歩みをしたのか、今日の聖書からわたしたちはその足跡を辿っていきます。主イエスの誕生に駆けつけた東からの学者たちの喜びが結果として、ヨセフの家族に危険をもたらすこととなりました。時のユダヤの王ヘロデ大王は大変猜疑心の強い人物で、学者たちが純粋な気持ちで最初に王の住む宮殿を訪ね「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」(2節)と尋ねたとき、一応平静を装いましたが、「ユダヤ人の王」という言葉に神経質に反応しました(3節)。なぜなら彼こそが現在のユダヤの王であったからです。そこで学者たちに見つかったら知らせてほしい、わたしも行って拝みたいからと彼らを送り出します。他方、学者たちはついにその幼子を探しあて喜びに満たされました。その後、彼らに夢でヘロデのところに帰るなとのお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰っていきました。もちろん学者たちが帰りにヘロデに会おうが会うまいが、疑い深い権力者ヘロデにとってイエスの誕生は危険なしるしとなりました。ユダヤ人の王としてお生まれになったクリスマスの出来事は、信ずる者にとっては大きな喜びではありますが、彼にとっては自分の地位が脅かされるという思い込みから恐れとなったのでした(3節)。

この状況は幼子イエスのその家族にとって危険極まりないものでした。そこで主の天使がヨセフに夢で現れエジプトへ逃げるように告げます。この言葉を聞いたヨセフは起きて、夜のうちに幼子イエスとマリアを連れてエジプトへ行きました。夜中に起きて、遠くエジプトに逃げていく。それも日中の太陽が輝く明るい時間ではなく、寒い夜に取る物も取りあえず幼子と出産でまだ疲れが取れない妻を連れて逃げなくてはならないことは大変なことだったでしょう。クリスマスで示されたのはだれからも顧みられない場所から神の子の誕生が始まったということでしたが、それだけでなくその後も命が脅かされるような危険な目に会いながら、幼子とその家族は難民のように逃げなくてはならなかったのでした。そのとき学者たちが贈ってくれた黄金、乳香、没薬は、どれだけこうした不安定な旅の生活で役立ったことかと想像します。

死の危険はこの幼子だけに及んだのではありませんでした。クリスマスにあまり取り上げられないかもしれませんが、実はおぞましい出来事が起きているのです。学者たちにだまされたと知ったヘロデ王は、怒ってベツレヘム一帯に住むイエスとほぼ同じような年代の幼児を殺害する命令を出したのです。実は今日の箇所を読んでいますと、ここには旧約のモーセを巡る一連の出来事と関係していることに気づきます。旧約聖書の偉大な人物モーセ、彼の誕生に際しても危険がつきまとっていました。そのときにはエジプトの王ファラオがヘブライ人の男児殺害命令を出していました。生まれたばかりのモーセは3か月ばかり育てられたのですが、ついに隠し通せなくなった親はモーセを小さな籠に入れてナイル川の葦の茂みの間に置きました。たまたま川へ水浴びに来ていたファラオの王女がその子に気づき、王室に引き取って育てることになりました。不思議な導きです。死と隣り合わせで命が得られたのです。他の幼児が殺害されていくなか、一人の幼子が救われるのは、ここイエスの誕生と似ています。しかもどちらも同じエジプトと関係した出来事でした。さらに言えば、ヨセフが家族を連れて夜のうちにエジプトへ逃れたことは、同じくモーセに率いられたイスラエルの民が急いでエジプトを脱出した過越しの夜をさえ思い起こします。向かった方向は逆ではありますが、神の救いの御手が、こうした緊迫したなかで差し伸べられたのでした。

ヨセフとその家族は、やがて祖国の嵐が収まると、再びユダヤの国に帰ることができました。それでもまだ都エルサレム周辺の地域は危険だということで、そこからはるかに離れたガリラヤのナザレという町に移り住むことになりました(23節)。誕生したベツレヘムがそうであったようにエルサレムからははるか離れた辺境の地であり、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1.46)とナタナエルに言わしめるほどの偏見があったほど取るに足りない小さな場所でした。クリスマス一連の出来事から教えられることは、こうした小さな人々、小さな場所が神によって大きく用いられるということであり、反対に人間の目から見た大きさが神の祝福からいかに離れているかということでもあるのです。この世の目と神の目の違いです。

このように幼子イエスの家族は時の権力者の手から逃れるために、厳しい境遇に甘んじなければなりませんでした。けれどもそこには一本の筋、すなわち信仰の導きがあったということにわたしたちは注目します。それは「預言者を通して言われたことが実現するためであった」という言葉が三つの場面にすべて出てくることからも分かります(15節、17節、23節)。この言葉、直訳しますと「満たされた神の言葉」ということです。神の恵みが満ち溢れるというような意味です。夜中に起きて急いで逃げていく、またエジプトという異郷の地での滞在、そしてナザレという辺境の地での生活。ここには幼子イエスの家族の小ささ、無力さが示されています。けれどもそうした小ささ、無力さの中に神の御手が注がれていたのでした。わたしたちは苦難のただ中にあることと、神の導きは相容れないと思いがちです。この問題が解決したら、もっと自分の力を出すことができるとも考えがちです。そうではなく、一つの問題が解決してからではなく、そのただ中に神は働いておられるのです。うまくいかない、そのような困難のただ中にも神の導きがあるのです。箴言に次のような言葉があります。「人の心には多くの計画がある。しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ」(19.21口語訳)。ヨセフの家族には計画どおり進むというよりは、何か振り回されているような不安定さを感じざるを得ません。それにもかかわらず、ここには一貫した神の導きが溢れていたのでした。死のただ中にある命、弱さのただ中にある強さと賢さが、神の御言葉による導きによってイエスとその家族の歩みを支えていたのです。

新しい年2021年、今年はわたしたち野方町教会にとって一つの新しい局面に入ります。教会の歴史を語るとき、それを牧師の在任期間で述べることが可能ですが、それに沿うならば一つの時代が終わり新しい時代が始まるということでもあります。それとは別に、またそれとも深く関係しながらわたしたち一人ひとりの新しい1年が始まります。学びにおいて、職場において、家族・家庭において、あるいは健康や老後において。コロナ禍も依然として継続しますが、幼子イエスの家族がそうであったように苦難の中で、そのただ中でさえ働かれる主の助けと導きを信じながら、やがてそのイエスが救い主として、わたしたちのために、わたしたちと共に歩んでくださることを覚えて、この1年を希望と勇気をもって歩み始めたいと思います。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

降誕節第2_2021年1月3日配信