マタイによる福音書6.13 (2018.11.4)

「主の祈り」は全部で6つの祈願から構成され、それは大きく2つに分けることができました。前半の3つは神に関すること、後半の3つは地上に生きるわたしたちに関することです。その後半の3つの祈りのうち、今日はその最後の祈りとなりました。「我らをこころみにあわせず、悪より救いいだしたまえ」。聖書の本文としては、今日開きましたマタイ6.13の言葉です。「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」。ちなみに並行記事があるルカ福音書には、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」となっており、後半の「悪い者から救ってください」がありません。

「われらをこころみにあわせず」(これは口語訳聖書の訳)、あるいは今日の聖書のように「誘惑に遭わせず」、この「試み」と「誘惑」はどう違うのでしょうか。皆さんはどのように受け取っておられるのでしょうか。前後関係によって「試み」とも「誘惑」とも、あるいは「試練」とも訳すことができます。特に試みとか試練と言う場合、聖書では大きく二つの点を示しています。一つは教育的な側面です。たとえば荒れ野の40年を旅したモーセ率いるイスラエルの民に主なる神はこう語られました。「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた」(申命記8.2-3)。新約聖書にも同様の教育的側面が語られています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(ヘブライ12.5-6)。このように苦しいことつらいこと、そのために力を落としてしまうようなこと、しかしそれこそが信仰者を鍛え、いっそう神に喜ばれるような成長につながるのだと言っているのです。

もっとも苦しみはそれだけではありません。それはわたしたちをひどく落胆させてしまうものでもあるからです。神と人との交わりを断ち切ってしまう危険なものでもあります。それが試みのもう一つの意味です。今日わたしたちの聖書では「誘惑」と訳されているのは、その面を特に示そうとしているのだと思います。「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」。これは聖書特有の並行法で、同じ意味を表現を変えて並べたものです。「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」は、すなわち「悪い者から救ってください」と同じ意味なのです。主イエスがゲッセマネの園で祈られました。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と(マタイ26.41)。ここで言われた誘惑も同じ言葉です。そのイエスがペトロに言われました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」。これはペトロがイエスを否認する裏切りの予告をしたときの言葉です。けれどもこれはペトロだけではなく、だれにも日常の生活の中でさらされる危機ではないでしょうか。だからこそ「悪より救いいだしたまえ」と祈るのであり、その悪とはまさにわたしたちを陥れようとするさまざまな誘惑なのです。それでもイエスはペトロたちに対し、「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と言ってくださいました(ルカ22.31-32)。これこそ今日の「主の祈り」と共通するものではないでしょうか。

そもそもわたしたちを危機に至らせ、信仰を揺るがせるものは、あらゆる方向からやって来ます。たとえば右からは、苦難があり、病があり、失敗やいろいろな悩みであったりします。災害や事故等による思わぬ生活の困難もこれにあたります。それによってわたしたちはひどく落胆し、そのような悪により信仰も希望さえも揺らいでしまう。それだけではありません。誘惑は左の方からもおとずれます。それは名誉であったり、富であったりします。それがうぬぼれや傲慢ともなり、そうした自己満足が惑わしとなって信仰を失うことにもなり得るからです。ここにも誘惑が潜んでいるのです。この両面による危機をパスカルは「パンセ」の中でこう述べています。「ソロモンとヨブは、人間の惨めさを最もよく知り、最もよく語った人である。前者は、最も幸福な人。後者は最も不幸な人。前者は体験よって快楽のむなしさを知り、後者は苦難の現実を知ったのである」。

「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」。外からおとずれる苦難であっても、わたしたちの内にある貪欲がもたらすものであって、さまざまなところでそれが誘惑となり、悪となっていく危険性があります。だからその同じソロモンの言葉と言われる旧約・箴言の中で彼はこう祈っているのです。「むなしいもの、いつわりの言葉をわたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンでわたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、わたしの神の御名を汚しかねません」(30.8-9)。

主イエスはこのようなわたしたちが陥りやすい誘惑、試練に先んじて、まずご自身が経験をされました。それが荒れ野の40日におけるサタンからの試みではないでしょうか。石をパンにすること、また全世界を支配下におく権力を見せられもしました。これも誘惑です。そして神以外のさまざまな魅力的なものの挑戦も受けました。神にではなくそれらにひれ伏すという誘惑です。しかしイエスはそうした悪魔の試練(誘惑)のいっさいを拒否し、ただひたすら神との交わりの中で生きようとされたのでした。その最後の究極的な姿がゲッセマネにおける祈りであり、わたしたちのために苦難の杯を飲まれたのでした。キリストの十字架により、わたしたちが日々直面するさまざまな誘惑や試練、そうした悪を滅ぼしてくださったのです。だからこそ使徒パウロが次のように言うことができたのです。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます」(1コリント10.13)。「我らをこころみにあわせず、悪よりすくいいだしたまえ」。すでに悪魔に、またこの世のすべての悪や誘惑に勝利されたイエス・キリストにあって、この祈りが成り立ち、その信仰のもとでわたしたちはこれからも祈り続けていくことができるのです。