後で、分かるようになる
深井智朗牧師(東洋英和女学院院長)
※2018年10月21日(日)の伝道集会礼拝で、東洋英和女学院院長の深井智朗牧師が行った宣教の要旨が、教会機関紙『あかしびと』No. 822(11月18日発行)に掲載されました。全文をここに転載します。
人生で一番つらいことは、今身の周りで起こっていることの意味が理解できないこと、受け入れがたいと思える時です。絶望します。苦労や苦難の意味が分かれば私たちはそれに耐え、戦えるものですが、分からないと苦しいものです。しかし、「後で、分かるようになる」。
主イエスは、十字架にかかられる前に、弟子たちの足を洗われました。普通は逆です。ですから弟子たちは不思議に思い、不安になり、尋ねたのです。「なぜ先生が洗ってくださるのですか」と。すると主イエスは、七節で「今あなたにはわかるまいが」、「後で、分かるようになる」と答えられたのです。人生はこの繰り返しです。今起こっていることの意味がわからないと不安になり、神などいないのではないかと考えてしまいます。あるいは、神を信じていなければもっと楽に考えられたと思うことさえあります。苦しみは深まるばかりです。しかし、そのような中で「後で、分かる」と主イエスは言われるのです。
ヴェルテップという人形劇があります。舞台が二階建てになっていて、二つの話が同時進行するのです。例えば下の段で苦しみに遭うヨブの姿が演じられ、上の舞台でヨブを試そうとする神と天使と悪魔の会話が進むという具合です。なぜ私たちは神を見失いそうになるのでしょうか。それはヴェルテップの上の舞台を見失うからではないでしょうか。信仰とは、下の舞台がなくなるように努力することではありません。逃げることができない下の舞台で、上の世界を確信して重荷を負って生きていくことです。「後で、分かる」ことを信じて。
以前勤めた大学に宗教主事となって赴任した時、部屋を借りるために不動産店に行きました。契約をしようとして、大学名を書きますと、途端に老夫婦の態度が悪くなりました。聞くところによると、娘さんを交通事故で亡くし、離婚していたため二人の孫を引き取り、育てているというのです。その娘さんが卒業生でした。ご夫婦は、キリスト教の神さまは、なぜうちの子を守ってくれなかったのか、と私に強く訴えました。後日別な用事で老夫婦を訪ねると、今度はまったく態度が違っていました。娘さんの部屋から学生時代の聖書を見つけたのだそうです。その中にレポートが挟まっていて、そこにはこの大学に入学させてもらえたことへの感謝、今自分がとても幸せなことと、そして自分の子どもも絶対同じ大学に入れたい、と書いてあったのだそうです。
老婦人はそのことを後で知り、先日の態度を詫び、娘の夢を叶えるために、お孫さんの併設の中学受験の勉強を開始したのです。そして見事合格し、あの母の聖書をもって入学式に向かったのです。母の聖書は口語訳、みなの聖書は新共同訳なのですが、それでも母の聖書を読むのです。読むごとに記憶にない母と繋がれるのですから。母が線を引いた聖書の箇所があるのですから。
人生の不条理の前でも、受け入れがたい出来事の前でも、絶望せず、前を向いて歩みましょう。「後で、分かるようになる」のですから。