ルカによる福音書20.9~19 (2019.4.7)  

 今このあたりでは桜が満開で、多くの人々が花見に繰り出しています。この季節はそれ以外にもいろいろな花が咲き誇っていて、教会の庭にも毎日わたしたちの目を楽しませてくれる多くの花が咲いています。教会創立80周年記念として信友会により植樹されたアーモンドの木もどうやら根付いたようで、今まさに花を咲かせているところです。これから10年後、20年後の成長が楽しみですね。桜が日本の代表的な花であるのに対し、聖書で同じように馴染みのある植物いえば、何と言ってもぶどうではないでしょうか。それゆえでしょう、ぶどうはイスラエルの象徴となっているほどです。「あなたはぶどうの木をエジプトから移し、多くの民を追い出して、これを植えられました」とあるとおりです(詩編80.9)。

 この朝わたしたちに語られたイエスのたとえもまた、そのぶどうについてでした。それはぶどう園の収穫に関するものです。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った」とイエスは語られました。これは当時の社会における農業経営の様子で、外国などに住んでいた不在地主が、小作の農夫を雇っていたことを背景としています。ところがその次です。収穫を納めさせるために遣わされた僕が袋だたきにされて追い返されてしまったというのです。小作人である農夫たちは、収穫の多くを地主に納めなくてはなりませんでしたから、そこから生じる敵意によりこうした反抗的な態度が出たのかもしれません。そこでぶどう園の主人はもう1人の僕を送りましたが、やはり同じような扱いを受けました。3人目もそうでした。袋だたきにされたり、侮辱されたり、さらには傷を負うようなひどいめに会ったのです。

 そこでぶどう園の主人は考え、自らにこう言いました。「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」。ここまで来ると、もう当時の農業経営やそれに関する状況を述べたものというよりは、それを背景としながらきわめてイエスの意図、主張が込められているように思います。農夫たちが言うわけです。「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」。地主への敵意から息子を敬うまではしなくても、その息子を殺してしまうという極端とも思える攻撃的な態度。また「相続財産は我々のものになる」というのも、実際問題としては正確ではないでしょう。なぜなら息子が死んでも、その親であるぶどう園の主人は遠くで生きているわけですから。これは明らかにイエスがこれから受けようとされる苦難と死を、一般に馴染みのある農業風景に付け加えたものと考えられます。

 そして旧約聖書の一箇所をお語りになりました。それは詩編の1節で次のような言葉でした。「家を建てる者の捨てた石、それが隅の親石となった」(118.22)。これら一連のたとえ話を聞いたとき、そこには多くの人々が聞いていたのですが、その中の律法学者や祭司長たちだけがこのたとえに反応しました。それを最後の3行でこう記しています。彼らは「イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた」。いったい律法学者や祭司長たちはこのたとえのどこを、自分たちに対する当てつけと受け取ったのでしょうか。これから起きようとしている神の独り子イエスの受難と十字架の死、しかもそれを行うのが自分たちであるということを、このたとえから理解したと考えるのは難しいと思いますが、少なくとも自分たちがここで語られて農夫の立場にあると受け取ったことは確かでしょう。彼らはイエスに既に敵意を抱いていたわけですし、16節にありますように、その農夫たちがぶどう園の主人に逆に殺され、ぶどう園をほかの人たちに与えるという言葉、それは彼らが通常見下していた徴税人や罪人たち、もっと大きくは異邦人にそのぶどう園が任されるようになるというところに当てつけを感じたのではないでしょうか。

 「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。この旧約詩編の言葉は、その後イエス・キリストはとは誰か、教会とは何か、そしてわたしたち信仰者がどこに立っているかを示す重要な言葉になっていきました。たとえば後にユダやの議会で取り調べを受けたペトロ、彼がこう証ししています。「あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません」(使徒4.10-12)。その同じペトロが自らの手紙でも次のように述べています。「この主のもとに来なさい。主は、人々から見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです」(1ペトロ2.4)。

 「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。それは建築家によっていらないといって捨てられた石が、反対に家の基礎になる親石(かなめ石)になったという意味です。2行目の「隅の親石となった」だけなら分かります。イエス・キリストは教会の基礎であり、わたしたち信仰者の土台であるからです。ところがその前の1行目の言葉が、そして2行目の言葉との関係が、理解を困難にさせるのではないでしょうか。なぜイエスは人々から捨てられたのか。そしてその捨てられることによって、どうして隅の親石となるのか。

 イエスは神の独り子であり、その栄光を身に帯びた方でした。その方がわたしたち人間と同じ肉の姿を取り、しかも僕として死に至るまで従順でありました。なぜのそのように低きに降られたのでしょうか。それはひとえにわたしたち人間のためであり、人の罪を背負うこととその罪の赦しの歩みにほかなりませんでした。わたしたち人間が自分ではできないことを、イエスがわたしたちのために、わたしたちに代って救いを達成してくださったのです。わたしたちが本来受けるべき見捨てられること、裁かれることを、神はイエスのおいてなされたのです。従ってこの「家を建てる者の捨てた石、それが隅の親石となった」との言葉は、イエス・キリストとは誰か、その救いの道のりの不思議を示したものですが、同時にこの世界の闇、わたしたち人間が神を差し置いて自らが中心になろうとするおごりや、そこからくる破れをも映し出しているのではないでしょうか。それゆえイエスはご自身の苦しみと十字架について語られた後、弟子たちに次のように言われたのでした。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(9.23-24)。これこそがわたしたちのために苦難の道を歩まれたキリストによる赦しと招きの言葉にほかなりません。ぶどうがその幹につながって生きるように、わたしたちもイエス・キリストにつながって歩んでいくのです 。