エレミヤ書23.1~6 (2019.11.24)
毎年11月の第4聖日は(本日)、教団では「収穫感謝日」と定めています。これは必ずしも教団の行事ということだけではなく、社会全般においても昨日(23日)が「勤労感謝の日」でありましたし、11月は全国各地方で秋の収穫を感謝することが多い月だと思います。アメリカなど移民の国でも、この時期に感謝祭が祝われるのも共通しています。教団ではこの日を、もう一つ「謝恩日」として定めてきました。謝恩日とは隠退教師を覚えて感謝する日ということです。これまで教団の諸教会に献身的に仕えてこられた先生方、そこには大変なご苦労があったわけですが、そうした働きを終えて今では隠退された方々を覚えるのです。毎年この時期に、教団年金局から隠退教師の近況報告が送られてきます。わたしは若いころには自分とはあまり関係のない気持ちで年配の先生たちを見ていましたが、最近出てくる名前には、以前ご一緒に教会の働きを担った方々の名を見るようになりました。さらには、わたしとそれほど年齢の違わない先生方もおられます。体調を悪くされたことや、その他いろいろな事情で隠退を決意されたのでしょう。
そうした隠退教師を覚えてのこの朝、聖書も同じように牧者に関する箇所が与えられました。その牧者たちに対し、厳しい口調で預言者エレミヤは語るのでした。「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」。ただこの牧者、それは現在の教会に仕える牧師というよりは、当時の社会の支配者たち、すなわちユダの国の王と彼を取り巻く高官たちを指したものでした。エレミヤが預言した時代は、ユダ王国が滅亡する王国末期にありました。紀元前6世紀の頃です。北からはバビロニアが南下し、南からは同じような強国エジプトが北上し、ユダの国はその板挟みになっていました。王たちはその時々に、北のバビロンについたり、南のエジプトに援助を求めたりと、優柔不断な政治を行っていたのです。そして国に属する一般の人々は捨てておかれました。指導者たちのそうした態度は、主なる神への信頼の欠如から来るものであり、その結果神を恐れるよりも人を恐れていたからでした。
そうした指導者たちのもと、人々は苦しみにあえいでいました。孤児など親のいない子どもたち、寡婦など夫を失った女性たち、今日でもそうですが当時の社会では最も貧しく困難な人々の代表であり、そうした人々が置き去りにされていきました。また寄留の外国人も見捨てられたままであり、搾取されるなどひどい扱いを受けていました。他方で支配者たちはどのような生活をしていたかといいますと、彼らは自分のために広い宮殿を建て、レバノン杉などの高価な建材を用いて、いっそう豪華な屋敷を作っていたのでした(22章)。
「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」。さらに主なる神は次のように言われました。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」。預言者エレミヤは、王など指導者に欠けていたものを二点指摘しました。それは神への信仰と恐れ、もう一点は人々の間で必要とされる公平・公正でした。それを今日の聖書は、「正義と恵みの業」と呼んでいます(5節)。これは今日のわたしたちの社会においても重要な姿勢ではないでしょうか。自分だけよければといった思いが支配する世界では、必ずその中で苦しむ人々が生まれます。昨日ローマ教皇が来日しました。名前はフランシスコと言いますから、おそらく13世紀のアッシジのフランシスコを尊敬しておられるだと想像します。その中世のフランシスコに「謙遜の道」というタイトルで、次のような言葉が残されています。「慈悲と知恵の人には、不安も無知もない。忍耐と謙遜の人には、怒りも憤懣もない。喜びをもって貧困を迎える人には、貪りも欲望もない。平和と瞑想の人には、危惧も疑惑もない。主を恐れる思いが厳然と存在している所には、敵は入りこまない。慈悲と節度の人は、放縦でも粗野でもない」。こうした言葉は現フランシスコ教皇の心にも、ほぼ確実にとどまっていることと思います。
主なる神は不信仰と自分勝手に振る舞う支配者たち、その牧者たちの罪によって苦しむ人々に目を向けておられました。神はそのような弱い立場の人々を、「わたしの羊、わたしの民」と呼び、彼らを心に掛け、顧みていてくださっているのです。そのため追いやられた人々を再びもとの牧場に帰らせるために、彼らのためにまことの牧者を立てようとされました。「彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われました(4節)。それならば、「もはや恐れることも、おびえることもなく、迷い出ることもない」、そのように導く牧者とは誰なのでしょうか。
預言者エレミヤはこのような言葉をもって、その牧者を示しました。「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え この国に正義と恵みの業を行う」。「若枝」、「ダビデのために正しい若枝を起こす」。この若枝という響きはいいですね。ひこばえと言ってもよいと思います。今教会の庭では、いろいろな植物がわたしたちの目を、また心を楽しませてくれています。教会学校が始めた花壇の花、すっかり根を下ろしたアーモンドの木、そして庭全体を彩る樹木や花々は、そうした空間が少ないこの野方地域だけに、余計オアシスのように感じられるものです。どのような気候の変動があったとしても、必ず新しい芽を出していく植物の逞しさ、忍耐強さを見るとき、エレミヤが預言したように、風前の灯のような滅びゆくユダ王国にあって、そして希望を抱かせるようなものが何も見当たらない中にあっても、それと同じように打ち沈んでしまうのではなく、むしろ反対に、逆に「ダビデのために正しい若枝」を指し示すことができたこと、それこそ主なる神の力強い救いのメッセージでした。「彼の世に、ユダは救われ イスラエルは安らかに住む。彼の名は、『主は我らの正義』と呼ばれる」。
次週からアドベントに入ります。まことの牧者、イザヤも「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育つ」(11.1)と語ってようにイエス・キリストの誕生をいよいよ間近に仰ぎ望みながら歩んでいきます。どのような荒れた社会にあっても、そのことでどのように打ち沈んだわたしたちの心であったとしても、そこから必ず新しい若枝が生まれ、希望が与えられることを預言者エレミヤはわたしたちに語っているのではないでしょうか。