イザヤ書52.1~10 (2019.12.1) 

12月を迎えました。今日は121日、いよいよ今年も残り1カ月となりました。そして教会暦ではアドベント(待降節)に入りした。これから4週間、救い主イエス・キリストの誕生をお迎えする準備として歩んでいきます。そのシンボルとしてアドベントクランツにローソクの光をともし、クリスマスのリースやイルミネーション、その他の飾りつけをしてクリスマスを心待ちにします。

わたしは今年から真面目に聖歌隊に加わっています。特にイブ讃美礼拝&コンサートにおけるは「ハレルヤコーラス」に参加するためにです。このヘンデルのオラトリオ「メサイア」には聖書の至る所から救い主を指し示す箇所が選ばれています。その一つの箇所として、今日のイザヤ52.7も歌われます(正確にはこれを引用したパウロのローマ書10.15ですが)。澄んだソプラノの声で「いかに美しいことか」(How beautiful)とアリアが歌われています。今日の宣教の題はここから付けました。

イザヤ書は全体で66章から成る膨大な預言書ですが、一人の人物によって書き下ろされたわけではありません。1章から39章までと、40章以降とでは文体からも、書かれている歴史的背景からもまったく別の時代であることが分かります。この間には100年以上の時間的な開きがあるのです。さらに厳密に言いますと、40章から55章までと、56章以降とでは、最初の開きほどではありませんが、少し時代が下った預言者によって書かれていると言われています。その2番目の3番目の預言者が誰なのか名前は分からず、歴史的にはこのようにイザヤ書として一つの預言書としてまとめられていますので、わたしたちは便宜上第2イザヤと第3イザヤと呼んでいます。

ならば今日の箇所、すなわち40章から始まる第2イザヤの歴史的な背景はどのようなものだったのでしょうか。紀元前6世紀にユダの国は新バビロニア帝国によって滅ぼされました。さらにそこでは主だった人々が遠くバビロンの地へと強制的に移住させられました。これが歴史で言うバビロン捕囚です。それから50年ほど経ってから、ようやくバビロニアの力が衰え、次にその東からペルシア帝国が台頭しました。ペルシアの王キュロスはバビロニアを滅ぼし、ユダの人々など捕らわれ人に故国への帰還の許可を出しました(45.1)。しかし帰還の許可が出たといっても、それで人々の生活や彼らの心はすぐには切り替えることができるわけではなく、新しい環境に簡単に対応できるわけではありませんでした。

それは先週までわたしたちが募金活動をしてきました、関東から東北にかけての台風による被災地の人々からも分かるのではないでしょうか。従来通りこの家に、この地に留まるか、それともあきらめて新しい場所での生活を考えるのか。そのためには自分の健康のこと、年齢のこと、経済的な裏付け、現役なら仕事のこと、また家族のこともいろいろ検討しなくてはなりません。ましてここバビロンでは50年以上も続いた生活の場があります。迷いとか躊躇することがあったでしょうし、そのために簡単に行動することは難しかったのではないでしょうか。ましてユダの人々は捕らわれの人々でありました。ということは神殿のない異教の世界で、しかも抑圧された者として生きてきたということであり、それゆえ精神的にも疲れや落ち込むことがあり、それが余計重荷になっていました。

このような出来事の前後に預言者として活動したのが第2イザヤだったのです。イザヤはそのように打ち沈んだ心の人々にこう語りかけるのでした。「奮い立て、奮い立て」。もう下ばかり向いていないで、また落胆した者としてではなく立ち上がりなさい、そのように生きていいんだよと励ますのでした。「力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ」。この言葉からも、捕らわれの民がいかに萎えた状態にあったか、よれよれの服を身にまとっていたかが分かるのではないでしょうか。「立ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ」。埃を払って立ち上がり、捕らわれの印としての縄目を解きなさい、もう自由な身なのだからとイザヤは語ります。

そこで次に目をバビロンの地ではなく、故国エルサレムに移しました。そこは今も廃墟のままであり、そんな中にあって見張りが力なく歩哨として立っていました。そこへ遠くから伝令がこちらに向かって走って来るのが見えました。しかも喜びの知らせを携えてです。その声が徐々に大きくなって聞こえるようになってきました。そうした様子が生き生きと描かれているのが7節以降です。「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ あなたの神は王となられた、と シオンに向かって呼ばわる」。その喜びの知らせを聞いて、元気のなかった見張りの者たちは皆共に声をあげて喜び歌うのでした。

さらにいっそう見張りを驚かせたのは、良い知らせをもたらした使者に続いて、何と主なる神ご自身がこちらに向かっておられたのでした。「彼らは目の当たりに見る。主がシオンに帰られるのを」(8節)。「彼らは目の当たりに見る。主がシオンに帰られるのを」、これこそ今日のアドベントが語る重要な出来事なのです。「主がシオンに帰って来られる」、しかも王となって。それをわたしたちは目の当たりに見るのです。そこには歓声があがり、喜びの歌が生まれました。人々は大いなる慰めを得、贖われたことを知ったからでした。「主は聖なる御腕の力を 国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が わたしたちの神の救いを仰ぐ」。

アドベントとは主の到来(来臨)を意味します。わたしたちはこれから主の誕生を待ち望み、迎えるための準備として歩んでいきます。けれどもそれと共に、いやそれ以上に主ご自身がわたしたちの方に向かって来られるということでもあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と言われるようにです(ヨハネ3.16)。どんな勢いのある生涯であっても、必ずその勢いは失われます。若者も疲れることがあり、壮年であってもつまずき倒れます。しかし「主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上」ります。そこでは「走っても弱ることなく、歩いても疲れません」(40章)。今わたしたちはそのようにこちらに向かって近づいて来られる主イエス・キリストを、あたかも見張りに立つ者のように待ち望んでいきます。どのようなつらいことがあっても、そして自信をなくすようなことがあったとしても、わたしたちにはそれらを超えた喜びの歌があり、慰めがあり、救いが近づいているのです。