光り輝く雲    マタイによる福音書17.1‐13    2021.3.14 

先週の311日は東日本大震災から10年ということで、日本や世界の至る所では、そして一人ひとりは被災地を覚え、犠牲者を悼んで祈りを捧げました。わたしたちの祈祷会でも、この災害や事故を取り上げ、復興と癒しを皆で祈りました。あの出来事から10年後の今、同じく未曾有の災厄、今度は新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け、わたしたちは悩み苦しんでいます。聖書では人間を土の器と表していますが、まさにその通りだとつくづく思います。土の器とは、言い換えれば鉄のような器ではないということです。普段何でもないときには、ほとんど変わらないのですが、ちょっとした衝撃を受けただけでひびが入り、さらには壊れてしまうような脆さをもっています。人間の精神、肉体、またこの社会はそのように、いかに脆いか、脆弱であるかをこのような災害はわたしたちに示しています。

イエスは12弟子のうち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを連れて高い山に登りました。そこで弟子たちが目にしたのは、イエスの姿が変わり、「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」という、まさに変貌のイエスでした。これは旧約時代のモーセが「十戒」をシナイ山で授けられたときと似た光景です。山、しかも高い山というのは神がご自身を現される場所であり、神からの特別の使命を受けるとき姿が変わることにおいても共通しています。

聖書はさらに続けます。そこに「モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」。この光景が何を意味しているか、それは旧約の伝統を受け継ぐユダヤの人々にはよく分かることでした。モーセとエリヤ、この2人は旧約時代を代表する人々だからです。モーセが律法の代表とするならば、エリヤは預言者の代表です。「律法と預言者」とは、すなわち旧約聖書のことですが、その代表がモーセとエリヤなのです。イスラエルの人々があがめていたこの2人がイエスと一緒にいるということは、イエスが旧約聖書の骨子である律法と預言者を完成するために来られたということを証ししているのです。さらにこの場面に説明を追加しますと、それはユダヤの世界に生きていた2つの期待を1つに結び合わせたものでもありました。1つはモーセのような預言者が終わりのときに到来するという期待、もう1つはその終末時にはエリヤが再び出現するという期待です(10節)。従ってこの光景はイスラエルの歴史の完成と、栄光ある終末時に期待されていたあらゆる希望の完成が、イエスにおいて実現することをあらわしていたのでした。

ペトロがつい口をはさんで言ったのは、そうした感動、喜びがあったからでしょう。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。ペトロがこの光景から受けた喜びの言葉です。6日前、イエスご自身が苦しみを受けて殺されると言われたときは、ペトロは「主よ、とんでもないことです」といさめたのに対し、今のこの光景はペトロも受け入れることのできるものでした。だから、小屋を建ててその栄光を固定しておきたいと思ったのでした。しかしこれもまた、ふさわしいことではありませんでした。山の上での栄光はいつまでもとどめておくものではなく、再び山を下りてイエスは苦難の道を歩まねばならなかったからです。

すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえました。この声はイエスの受洗のときと同じです。イエスが世の悩める人々に身を寄せ、彼らと共に洗礼を受けられたときも、この天からの声が聞こえました。自らを罪人の一人のように身を低くされ、彼らと共に歩もうとされたイエス、他方ここでは輝く雲に包まれた栄光のイエス、どちらもイエスその人でした。弟子たちは非常に恐れ、地にひれ伏しました。あまりに神々しい体験をしたからです。

弟子たちが地にひれ伏していると、イエスは近づき、彼らに手を触れて言われました。「起きなさい。恐れることはない」。これは病に苦しむ者、心が打ち沈んでいる者を癒されるときの言葉と同じです。それは今もわたしたちにもかけられているイエスの言葉でもあります。「起きなさい。恐れることはない」。そこからわたしたちも立ち上がることができ、勇気をもって、また前を向いて歩くことができるようになるのです。彼らが顔を上げて見ると、そこにはイエスのほかはだれもいませんでした。つい今しがたの光景、輝いた衣でモーセとエリヤと一緒におられたところは勝利のイエスでした。それはまた天上の姿であり、神の約束が実現した場面でもあります。しかし彼らが再び顔を上げて見ると、そこにはもう1つの光景、すなわちこれまでと何ら変わりない現実の風景がありました。そこは山の中であり、草や木に覆われた所であり、石がゴロゴロしている所です。モーセもエリヤもいません。そこには「イエスのほかにはだれもいなかった」のです。けれども別の言い方をすれば、そこにイエスだけはおられたということです。ペトロが願ったように山の上で、モーセとエリヤとイエスのために仮小屋を建てて住むということはできませんでした。彼らは再び山を下りなくてはならなかったからです。それでもイエスだけは彼らと共におられました。

山を下りる、それは再び日常の生活、現実の世界に戻ることであり、いまだ勝利からほど遠い、栄光からはるかに離れている世界に帰ることでもあります。この地上では今も争いが繰り広げられ、血が流され、わたしたち一人ひとりも迷いと不安と死にさらされています。それが現実の世界です。けれどもわたしたちにとってその中で一つだけ、しかも大きく一つだけ違うことがあります。モーセやエリヤは確かにいません。太陽のような輝きもないかもしれません。しかしそこでもイエスだけはおられます。そしてこれからも、世の終わりまでいつも共にいてくださいます。

モーセ、エリヤと語り合う勝利のイエスは、またこの地上で今も苦悩する人々と共に歩むキリストでもあります。イエスはメシアです。変貌の出来事がそれをあらわしています。しかしそのメシアは苦難と十字架の道を歩むことにおいて、僕として人々に仕えることにおいて救い主でありました。この主イエスだけが、天においてだけでなく、地上で労苦しながら歩むわたしたちと共にいてくださるのです。その主イエス・キリストを信じで共に歩んでいきましょう。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

受難節第4_2021年3月14日配信