「神さまから託されたもの」 使徒言行録 1章6-11節
復活されたイエスは、その後40日間弟子達に現れ、最後彼らの目の前で天にあげられます。自らの力ではなく、父なる神によって天に上げられます。それは、イエスが人の子であると同時に、神の子であることを示します。使徒信条では、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえりとあります。神の最も近くにおられて、神と同じ権威と力を持ち、私達のためにとりなしてくださるということです。
イエス様というと、救いばかりが強調され、そのままのあなたでよいという、あるがまま信仰、いわゆるヒューマニズム(人間中心主義)になってしまいます。悔い改めも、罪の赦しも、十字架と復活も二の次、またはどうでもよくなる。また裁きばかりが強調されると、律法主義的、教義的になり、頭で信仰を理解する人間となり、神の愛を口にしながら、人を裁くような信仰者になってしまいます。隣人しかいないか、神しかいないか、どちらかになる。大事なのは、イエス・キリストは神であり人であるということ、神を愛し、同時に隣人を愛することが求められているということです。
神の子であり、人の子であるという意識を持たなければ、容易にどちらかに傾いてしまいます。その方が楽だからです。私達の信仰は、どちらか一方ということはありません。時は満ち、神の国は近づいたとイエスが言われる時、それは、神の国はすでに来ているし、またこれから来るのです。すでに救われているし、これから救われるのです。終わりは始まりでもあり、裁きは同時に救いです。
信仰は、何か一つのものにとらわれるものでも、どちらか一方に傾くものでもありません。自分の立場や、思いが正しいと思い込んでいるときは、何かにとらわれています。そうすると、自分の間違いや、欠け、罪には気づけません。自分の立場、思い、正しさを捨ててこそ見えてくるものがあります。しかし、自分では離れられない、捨てられないからこそ、神だけでなく、隣人を愛するのです。神の子であり、人の子である、どちらか一方ではない、イエス・キリストを信じるのです。
イエス・キリストに出会うことで、否応なしに自分自身から、自分の思いから、手放せないものから離されるのです。それは罪ある状態から離されている、救われているということ。キリストを頭とする体にあっては、教会においては、私達はその部分であり、頭にも、全体にもなれません。自己中心的な、神無き姿ではないのです。神を愛し、隣人を愛する、それはイエス・キリストが示された生き方であり、神と私の垂直の関係、隣人と私の水平の関係において示される十字架です。この十字架を、私達は、教会は託されています。この十字架を共に背負いつつ、この主の道を歩んで参りましょう。
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