宣教 「繋がりの共同体」 野田 沢牧師
ヨハネによる福音書 15章 1―10
この聖句を読み、私たちは不安になります。「私はよい実をつけることができるだろうか?」と。
「私は主なる神の目に、よい実をつけていない。そのようなよい実をつける自信もない。」我々は、まことにそのような者です。
では、そのような「実をつけない枝」である私たちはどうなるのか?…父である神によって、「幹から切り取られ、集められて焼かれてしまう。」と聖書は言います。主イエスがそう言われているのです。
これは、本当に恐ろしいこと。自分が、イエスさまと神さまから離されてしまう。主なる神の光も希望も、主イエスの慈しみも愛も、聖霊のあたたかな息吹からも断絶された今を生き、未来を生きる事。…残念ながら私たちはそれに値する生き方しかしてこなかった。そう告白します。
私たちだけではなく、「世のすべてが神さまに従ってこなかった歴史」があります。それが描かれているのがこの聖書。神の言葉に聞き従わなかった歴史。神から離れることばかり、自らを頼ることばかりに想いを砕いてきた人間の歴史がある。その極みにあるのが私たち一人一人が形作るこの今、現代ではないでしょうか。
人同士は孤立と孤独を感じ、主なる神に対しては無理解と自立。自分だけで精一杯で他者に無関心となっている私たちとこの社会、慰めを必要としている私たち一人一人であり、この社会であり、教会共同体です。
そのような中を生きる私たちに対し、主イエスはこの時、語りかけてくださる。「私につながっていなさい」と。
私たちはこの「ぶどうの木」の聖書箇所を読むときに、「私から離れるな」「豊かな実を結べ」「焼かれてしまう」と、脅迫的な感覚をもって読み、聞いている。しかし主イエスは、十字架の死のまさにその前夜、最後の晩餐の席上で、弟子たちと私たちに語るのです。「私はあなたに繋がっている。」との命がけの約束を。
「繋がっていなさい」…これは私たちへの努力を求める言葉ではない。ましてや裁きの言葉でもない。自らの十字架の時を知り、望んでくださった十字架の前夜の「私はあなたと繋がっている。」という主による約束の言葉。
主イエスはおっしゃる。「父よ、お待ちください。この枝は今、自らよい実をつけることはできません。しかし私が必ず導きます。ですからどうかお救いください。代わりに、私があなたから切り取られ、焼かれて参ります。」と。
今、コロナ禍にあって繋がりを必要としている一人の人間として、一人の信仰者として、無僕という試練の中を歩む野方町教会の一員として、今一度胸に刻みたい。主イエスの十字架という出来事が、主イエスによるこの私とこの信仰共同体への「命がけの繋がりと守りと導き」を証する出来事であるということを。
「今日ここで焼かれるのは、枝(あなた)ではなく、幹である私自身である。」…主は何というお方でしょう。このような私のために死んでくださるとは。
主よ、どうか野方町教会を豊か実を結ぶ枝として導いてくださいますように。
※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。