宣教 「神の子か、悪霊の頭か」 高砂 民宣牧師
聖書:イザヤ書 53章 11~12節、マルコによる福音書 3章 20~35節
今月の3月2日(水)から、教会歴では「レント」に入った。レントは、イエス・キリストの御受難を覚える時期である。主イエスは私たち人間の罪を贖うために、私たちの身代わりとなって十字架の死を遂げてくださった。そのことを確信し、イエスとは私たちにとって一体どのような御方であるのか。イエス・キリストは神の独り子であり、私たちの罪の贖い主であることを明白に宣言できるよう、信仰に固く立ち、ご一緒にレントの日々を歩んで参りたい。
主イエスは伝道活動から戻って来られ、弟子たちと共に、ゆっくりと身体を休めて食事をしようとされた。しかし噂を聞きつけた大勢の人々が押しかけて来た。その中には主イエスの身内の家族と共に、エルサレムの都から派遣された律法学者たちもいた。
律法学者たちは、開口一番次のように言った。「あの男はベルゼブルに取り憑かれている」(22節)。「ベルゼブル」とは、悪霊の頭を意味している。ユダヤ教の指導者たちにとっては、主イエスの力が神からのものであると見なされれば、彼らは権威の座から降り、主イエスの前にぬかずく必要があった。しかし頑なである彼らは、それを良しとはしなかった。それ故にエルサレムから遣わされた律法学者たちは、主イエスのことを悪霊の頭と言いふらしたのである。主イエスはこれまでにも汚れた霊に取りつかれた男を癒す等、数々の奇跡を行われた。しかし律法学者たちは、そうした主イエスによる奇跡の力を、神の力、聖霊の力とは認めなかった。むしろそれらの出来事を、悪霊と悪霊との戦いと見なし、悪霊の頭が、その手下を追い出したに過ぎないと、律法学者たちはフェイク・ニュースを流し始めたのである。
こうした批判に対し、主イエスはどのように対処されたであろうか。主イエスは23~26節で、「国」と「家」における内部分裂を例に挙げて説得しておられる。国家であろうと家庭であろうと、もしも内輪で争うならば、致命的な結果をもたらすことになる。主イエスはここで、旧約聖書のダニエル書11章2~4節に記されている教訓を引いていると思われる。そして、ご自分の業が悪霊同士の争いではないと断言されるのである。
主イエスはむしろ、悪霊の頭を打ち滅ぼすために、この地上においでになったのである。27節で主イエスは、一種のユーモアをもって、ご自分を押し入りの強盗に譬えておられる。「強い人」とは悪霊の頭、「縛り上げる」者は主イエス、そして「家財道具を奪う」とは、悪霊たちの奴隷となっている人々を救うということを指している。つまり主イエスは、悪霊の頭を打ち滅ぼすことにより、悪霊の子分たちを蜘蛛の子を散らすように追い出す、ということである。そしてこれは、主イエスの十字架と復活により、現実の出来事となったのである。
旧約聖書のイザヤ書53章には、主の僕の苦難と死について記されている。キリスト教では、この主の僕の姿をイエス・キリストの中に見出すのである。神の民であるイスラエルの人々が犯した罪咎を主の僕はその身に引き受け、背負われた。それによって罪の執り成しの業が為された。それと同様に、主イエスはご自分が十字架につき、贖いの業を遂行されることにより、人々を悪霊の力、罪の縄目から解き放ってくださった。まさに主イエスの十字架と復活により、旧約聖書のイザヤ書53章の御言葉は、現実の出来事となったと信じるのである。
イエス・キリストは、人間の罪を赦すため、この世においでになった。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われ、多くの人々の罪をお赦しになった。しかし、例外が一つだけある、というのである。聖霊をけがす罪だけは赦されない、それだけは永遠に赦されることはない、というのである。
「聖霊を冒涜する罪」とは一体何であろうか。それは30節に「イエスがこう言われたのは、『彼は汚れた霊に取りつかれている』と人々が言っていたからである」と記されていることからも明らかである。すなわち、悪霊を追い出し、人々を助ける主イエスのことを悪霊の頭である等と言いふらすことは、決して赦されないことであり、聖霊を汚す罪に他ならない、ということである。悪霊というのは神に敵対するものであり、主イエスを悪霊呼ばわりすることは、主イエスを神に敵対する存在と見なすことである。主イエスにおいて働いておられる聖霊を認めない。これ以上の罪があるであろうか、というのである。
続く31節には、21節に登場した主イエスの身内の家族について再び言及が為されている。主イエスの母と兄弟たちは外に立っているのに対し、大勢の人々は主イエスの周りに座っている。この明らかな対照は、信仰と不信仰を指し示している。身近であるゆえに、家族は主イエスを本当の意味で理解することが出来なかったのである。
主イエスは、共に座っている一人ひとりに温かい眼差しを注ぎながら言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」(34節)。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(35節)。主イエスを信じ、神の御心を行う人。その人こそ、主イエスの真の兄弟であり、姉妹なのである。教会員がお互いに「〇〇兄弟」「〇〇姉妹」と呼び合う教会がある。これはイエス・キリストを信じる信仰にあって、神の家族であることを意味している。
主イエスの母マリアや兄弟たちは、その後どうなったであろうか。彼ら・彼女らは、主イエスが十字架の死を遂げられ、復活され、天へと帰って行かれた後、イエスこそキリストであることを信じるようになった。そのことは使徒言行録の1章14節に、「彼ら(主イエスの弟子たち)は皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」という記事からも明らかである。また、主イエスの兄弟ヤコブは、後にエルサレム教会で、ペトロと共に指導的な立場に立つ者となっている。
この事実を覚え、私たちも家族や周囲の人々が、いつの日か主イエスを信じる者となる日が来ることを祈り続けよう。私たち人間の思いを超える仕方で、神は全てを良き方向へと導いてくださる。そのことを覚え、イエスこそ神の子であることを信じつつ、主に従う信仰生活を共に歩み続けよう。
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