ローマの信徒への手紙 8.31~39 (2020.2.23) 

先週もお話ししました通り、読み進めてきましたローマ書は全体から見ればちょうど真ん中に入りました。どのような書物でも書き出しと結びが重要であると同じように、真ん中に当たるところでも重要なメッセージが語られています。今日の箇所がまさにその場所で、これまで読んできたところを受けたクライマックスと言ってよいと思います。それは今司式者が読んでくださった通りであり、皆さんがそれをお聞きになったことでもここの箇所の力強さが感じられたのではないでしょうか。

「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか」との言葉から、今日の箇所は始まりました。「これらのこと」とは、これまで語ってきたすべてと言ってもよいかもしれませんが、直前の言葉を受けたものといったほうがより分かりやすいと思います。すなわち前の18節以降で次のように述べられていたところです。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」。以上が「これらのこと」の豊かな内容です。だから次のように続けることができるのです。「これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」。もちろんその答えはノーです。だれもわたしたちに敵対することができません。

わたしたちもかつては神に敵対していました。神に背を向けて、自分勝手に歩んでいました。そして道に迷っていました。しかしそのような罪人として歩んでいたわたしたちのために、神は独り子イエス・キリストを送ってくださいました。それをパウロはこう述べています。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのはなおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらことです」(5.8 以下)。わたしたちが神の敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させてくださったなら、和解が実現した今は、言い換えれば神が味方であるならば、いったいだれがわたしたちに敵対できるでしょうかということです。だからさらにこのように言うことができるのでした。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。神の独り子イエス・キリストは、この世界に、わたしたちに与えられた最高の贈りものです。ならばどうしてわたしたちが今思い悩んでいること、必要としているもののすべて惜しむことがありましょう。それらすべても神はご自身の自由な恵みとして与えてくださるからです。

だからもはやわたしたちを罪に定めることのできる人はだれもいません。キリストがわたしたちのために、キリストがわたしたちに代って十字架の死を担われ、そこから復活して勝利をもたらしてくださったからです。昨日わたしはヘンデルの「メサイア」の演奏会を聞きにいく機会を得ました。多くの方がそうだと思いますが、わたしもこのオラトリオが好きで、レコード盤( 3 枚組)で持っていて今でもときどき聞いています。その中のハレルヤコーラスは有名で、わたしたちの教会でも毎年合唱していますが、全体の流れの中でこのハレルヤコーラスを聞きますと、一段とこのコーラスに含まれているメッセージの力強さ、素晴らしさが感じられるものです。「メサイア」は初めに旧約聖書からメシアの預言を取り上げ、次にそのメシアであるキリストの苦難の十字架が歌われます。最後にキリストの復活の勝利で結ばれます。まさに今日の 34 節で確信をもって語られている通りです。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」。

このイエス・キリストの十字架と復活こそ、愛に他なりません。聖書における愛とは、言葉の美しさというだけのものでもなければ、人間の感情に訴えるようなものでもありません。キリストの愛とは、ご自身の十字架による罪の赦しに基づくものなのです。それをヨハネはこのように述べています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4.10)。キリストの愛とは、すなわち贖罪しょくざい愛のことなのです。

わたしたちはこのキリストの愛によって生かされています。そしてキリストの愛からわたしたちを引き離すことができるのは、もはやだれも、何もありません。いかなる患難であろうと、どのような苦しみであろうと、また迫害、飢え、裸、危険、剣であろうとも。また引き離せないのは、そうして地上におけるさまざまなわたしたちを脅かしたり苦しめたりするものだけにとどまりません。この地上を超えて、それが天においても陰府の世界であっても、あるいは現在や未来といった時間を超えたものであったとしても、そうした超自然的なものであってさえ、キリストの愛からわたしたちを引き離すものは何もないのです。それが今日の結びです。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。だから、わたしたちは勝利者なのです。どのようなことがあっても、どのような状態にあっても、決して敗北者とはなりません。もちろんその勝利は自分自身の力によるものではなく、キリストの力、キリストの愛に支えられているゆえの勝利です。そのキリストの愛に捉えられた者として、わたしたちはいかなる道であっても信仰の確信をもって歩んでいきたいと願います。やはりパウロが他の手紙でこう述べているようにです。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ2.20)。

※教会員の方は以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

保護中: 降誕節第9 2020年2月23日