告 白   一テモテへの手紙6.11-21    2020.6.7 

今日の手紙の受取人であるテモテ、この人は使徒パウロの片腕として初代教会の伝道に大きく貢献しました。もう一人の弟子にテトスがいます。テモテとテトス、二人は使徒言行録にも、パウロの手紙にもしばしば出てきます。そこから信頼の厚い弟子であったことが十分に分かります。そのテモテに2通、テトスに1通の手紙が送られ、わたしたちはこの3通を牧会書簡と呼んでいます。それは他の手紙の受取人が教会であるのと違って、この2人は信徒ではなく伝道者だからです。伝道者だから分かること、あるいは伝道者・牧師ゆえに抱えている問題や課題、それらを念頭に著者は励ましの言葉を語っているのです。

冒頭の「神の人よ」もそれを表しています。この呼び名は、特別の働きを託された人の旧約以来の称号です。モーセ、サムエル、エリヤ、彼らもまた神の人でした。「神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい」。「これらのこと」とは、その前を受けたものでしょう。たとえば4節にある高慢、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いなどです。そうしたものを避け、代わりに「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」と続きます。信仰生活にはこのように、避けるものと追い求めるものの二面があります。どちらも欠くことができません。ちょうど作物を育てるためには、養分を与えつつ、同時に周りの雑草を刈り取るようにです。イエスが「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8.34)と言われたように、従うことは捨てることを伴うものであることも共通しています。

そこには当然戦いが生じます。だから次のように語られます。「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい」。この「戦う」という言葉の意味は、戦争のような戦いでなく、文化やスポーツの競技の戦いです。現在新型コロナウイルス感染の影響を受けて、学校の多くの大会が中止に追い込まれました。スポーツだけでなく、文化部の大会もです。大会は毎年行われますが、学生にとっては一度のチャンスです。それを思うと気の毒でなりません。何とかこの逆境をバネに将来飛躍してほしいと願います。彼らは優勝など賞の獲得を目指して毎日一生懸命練習に励んでいるわけですが、そうした競技に向かう戦いのイメージが背景となっているのです。信仰の戦いにおける賞は、言うまでもなく神から与えられる永遠の命です。

テモテは神からの召命を受け、信仰へと、さらに伝道者へと導かれました。「命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです」。「信仰の表明」、これは信仰の告白です。そこには会衆がいました。その会衆のことを証人と呼んでいます。洗礼式など、さらには今日の長老就任式やCS教師就任式にもあてはまることであり、それは礼拝の中で行われます。当然、礼拝出席者と共にです。会衆が証人であるのは、傍観者でもなければ、責任なしに単にそこに出席するということでもありません。テモテと共に主のみ言葉を聞き、それに従い、また同じように決意を一緒に受け止めていこうとする積極的な立場です。

証しである告白はイエス・キリストに基づいています。「ポンティオ・ビラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエス」。これはイエスが逮捕され、一晩中引き回されたあの受難の夜のことを述べたものです。最終的にはポンティオ・ピラトの前に引き出されました。そこで「あなたは何者か」と尋問されたときのことです。そのとき弟子たちはすべて逃げ去っていました。彼らはイエスが主であることを告白、証しできませんでした。けれどもイエスは最後まで、ご自身について、その使命について語ることを止めませんでした。それが告白であり、証しでした。まさに信仰の戦いがそこにあったのでした。

テモテの、そしてその後に続くわたしたちの信仰の告白、証しは、もちろん人間の熱意や意志によるものでも、それによってできるものでもありません。それは「ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます」とありますように、キリストの証しに基づくものなのです。キリストは地上のもろもろの王たちの中の唯一の王、地上のすべての主と呼ばれている人々の中でただ一人まことの主。そのように神と等しい方であり、また神ご自身である方が、一人の地上の権力者にすぎないポンティオ・ピラトのもとで裁判を受け、十字架の死に向かわれた。それはご自身が最後まで証しを貫いたからにほかなりません。わたしたち信仰者の歩みには、絶えず戦いが伴います。自分自身の内面で、そして外に向かっての戦いです。それでもわたしたちの道は、そしてそこでなされる信仰告白、それがたとえつたない証しであっても、キリストの証しに基づいているのです。だからこそ力があるのです。

最後にテモテに対してもう一度勧告がなされます。「この世で富んでいる人びとに命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」。これは冒頭の避けるべきもののまとめでもあります。人は何に望みを置くのか。「不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」。神を仰ぎ見ながら、また兄弟姉妹とよきものを分かち合いながら歩んでいくのです。そのような道においてこそ、堅固な基礎が築かれていくのです。わたしたちは各々自らにゆだねられているものを守りながら、信仰の道、すなわち命の道を一歩一歩進んでいきたいと願います。

※本宣教はネット配信による礼拝として守られました。
 以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

聖霊降臨節第2_2020年6月7日