気前のよい神さま   マタイによる福音書20.1-16    2020.11.8 

働いている人は自分の仕事をした分に対して報酬を受けます。就職して初めて受け取る給料、またアルバイトをしてお金を手にしたとき、それが自分の働きに対する報酬であることを実感するものです。収入の多い少ないは人間の価値そのものではありませんが、働きを示す1つの目安ではありましょう。ここにもう一つ、報酬という名前ではありますが別の支払いが語られています。それは働きがなくても同じ評価が得られる世界、いや働きに左右されないで与えられる支払いです。それが信仰の世界です。常に努力をしたら何らかの報いを得、それが人間の評価につながり、また生き甲斐にもなるこの社会からは、奇妙に見えるかもしれませんし、矛盾や別の不満が感じられるかもしれませんが、この朝聖書はそのような不思議な世界へわたしたちを案内します。

ぶどう園の主人が朝まだ暗いうちに出かけていって人を雇いました。朝の9時頃にも人を雇います。それでもまだ人手が足りないのか、さらにお昼頃、そして午後3時にも主人は町へ出て人を雇いました。約束した報酬は各々1デナリオン、それはユダヤのお金で1日分の賃金です。それで終わりではありませんでした。一日の仕事が終わろうとする午後5時頃、主人は町に出てみますと、まだ仕事もせずにいる人々を見ました。そこでぶどう園の主人は彼らをも雇いました。

珍しいのはこうした採用の仕方だけではありません。それから1時間後の夕方6時になり、日当が支払われます。すると主人はほんの1時間前に雇った人々から支払いを始めました。賃金は1デナリオンです。これは朝暗いうちから働いた人々と約束した同じ金額です。それを見ていた最初の人々は、彼らが1デナリオンもらったのなら、自分たちは変更してもっと多くもらえるだろうと当然思いました。けれども彼らも最初の約束どおり1デナリオンでした。そこで彼らは不満を言いました。「最後に来たこの連中は、1時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」。実によく分かる不満ではないでしょうか。そこで神さまであるぶどう園の主人が言います。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」。ここには平等と不平等が一緒に見られます。主人は確かに最初の者に約束どおり1デナリオンを払ったのですから、決して約束を破ったわけではありません。問題はわずか1時間しか働かなかった者にも、同じ1デナリオンを支払うという平等が、彼らに不平等を感じさせ、不満をもたらしたのです。それは主人の気前のよさによるものでした。

皆さんはこの話を聞いてどう感じられたでしょうか。朝暗いうちから働いた人々の気持ちに自らを重ねて、それはおかしいといった不満や矛盾を抱くでしょうか。それとも一番最後に雇われた人々の側に立って、ホッとした心温まる思いを抱いたのでしょうか。朝早くから働いてきた人の気持ちに同情する人は、現在も元気で働いている人かもしれません。反対に午後5時に雇われた人に思いを寄せた人は、は第一線を退いたり、何らかの理由でなかなか仕事がうまくいかない人、あるいは人生の深いところで破れや矛盾を感じとっている人かもしれません。

夕方5時頃町へ行ってみますと、まだ仕事をせずにブラブラしている人々がいました。主人がなぜ何もしないで一日中ここに立っているのかと尋ねますと、「だれも雇ってくれないのです」と彼らは答えています。現在は特に経済状態が悪く、仕事を求めてもなかなか働き場を得ることができないことが社会問題になっています。そんなことが重なって見える人々です。自分にやる気があっても機会に恵まれず、なかなか声がかからない人々です。だれからも当てにされない、期待されない、これは寂しいことです。学校や社会にうまく適応できない人々、あるいは年を取るに従い周りの者から期待されることが少なくなる、そのような人々も思い浮かべます。いや、これはあの人はこう、自分はどうだろうということだけでなく、一人の生涯の一つ一つの場面を示していると捉えることができるかもしれません。朝早くから働く、働ける、そのように十分努力ができ、評価される時代があるかと思えば、徐々にそうした機会が少なくなっていく。そして夕方5時になってもだれからも声がかからなかったように、老いて弱ったときとか、思いどおりにいかないつらいときもあるでしょう。しかしここで大切なのは、神はどのような人々にも自ら出向いて声をかけてくださるということです。自分であきらめてしまいたいようなときがあっても、神は1時間でも、ほんのわずかでも用いてくださいます。神はそのような人々をも必要としていてくださるのであり、しかもまったく同じ賃金の支払いが意味しているように、同じ変わることのない恵みを注いでくださっているのです。

朝早くから仕事をした人たちが1デナリオンの報酬をもらいました。これは最初の約束ですから当然のことです。この人たちが不満を持ち、自分が貧しく感じ始めたのは、遅れてやってきた者が自分たちと同じ扱いを受けたことにおいてでした。わたしたちの命とその価値は、どのような状況にあっても、たとえ朝一番に働けるとき、あるいはだれからも声がかからないときであっても、神の気前のよさによって成り立っています。人間の目には違いは見えるかもしれませんが、神さまは同じように扱ってくださるのです。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」。これが神さまの率直な気持ちなのです。「働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」とローマ書で使徒パウロが述べています(ローマ4.4-5)。結局私たちの生涯のすべては、その神の気前のよさに支えられているのです。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

降誕前第7(CS合同礼拝)_2020年11月8日配信