「満点のはずが」 神代真砂実牧師
ホセア書 第6章4節~6節、マルコによる福音書 第12章28節~34節
「あなたは、神の国から遠くない」――34節で、イエス・キリストは、こう言われます。これは不思議な、あるいは、微妙な言い方です。褒めているのでしょうか、それとも、批判しているのでしょうか。
この律法学者は別に悪いようには思われません。28節によれば、この律法学者は「進み出」て、イエス・キリストに「尋ね」たのでしたが、それは、「イエスが立派にお答えになったのを見」たためでした。遡って、第11章の27節から伝えられている一連の出来事におけるイエス・キリストの言葉に耳を傾け、正しさと権威とを感じとったからなのです。
ここで「立派に」と訳されている言葉には、「落ち度のない」・「欠点のない」といった意味があります。ですから、これを「完璧に」としてもよいでしょう。律法学者は、そこで大きな期待をして質問し、イエス・キリストは、29節以下にあるように答えられます。それを聞いた律法学者は、「先生、おっしゃるとおりです」と言います(32節)。この「おっしゃるとおりです」という言葉は、28節の「立派に」という言葉と同じですから、「完璧」ということです。律法学者は、イエス・キリストの答えに満足したに違いありません。
今度は律法学者が、32節以下で、イエス・キリストの答えを語り直します。得られた完璧な答えを、自分の方でも繰り返しているのです。完璧なはずです。ところが、律法学者の言葉についてイエス・キリストは、「適切」(34節)ではあっても、完璧とは見做されませんでした。その上で、「あなたは、神の国から遠くない」と言われたわけですから、これは誉め言葉ではありません。
律法学者が完璧だと考えたものには、欠けがあったのです。それは、イエス・キリストです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、イエス・キリストは教え始められました(第1章の15節)。神の国は、イエス・キリストにおいて、神様の方から私達にやってくるものです。人間の方からは近づけないのです。ですから、完璧な人であっても、神の国に入れるわけではありません。必要なのは悔い改めること、人間に目をとめるのをやめにして、神様に、イエス・キリストに目を向け、そのままに受け取ること、イエス・キリストを信じることです。言葉・教えだけでなく、イエス・キリストという方を、信仰を持って受け入れるのでなければ、完璧にはならないのです。
あの律法学者は、自分は神の国に入る切符を手にしていると安心してしまったのでしょう。しかし、私達は、自分で自分を安心させることは出来ません。私達の自己満足は信仰を損ない、イエス・キリストとの間に距離を作り出してしまいます。そういう私達に向けて、イエス・キリストは「あなたは、神の国から遠くない」と言われるのです。私達の信仰生活に、いつの間にか入り込んできた自己満足が、信仰を損ねるからです。
ですから、私達は、改めて、また繰り返し、そういう私達のために十字架にかかって下さったイエス・キリストに立ち返ります。自分で自分を安心させるのではなくて、神様の、完璧で、欠けのない恵みの中に安らぎを見出してこそ、私達の信仰の歩み、また、人生は確かなものになるのです。
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