二コリント3.1~18 (2018.5.20)

今日はペンテコステ、聖霊降臨日です。教会の誕生日でもあるこの日は年によって違いますが、わたしは5月のペンテコステが好きです。それは自分の誕生日が5月だからというのではありません。最近は気候がずいぶん変わってきましたが、やはり5月の気候が何とも心地よいからです。薫風の渡る5月、それは爽やかで、まさにどこからともなくさまざまな香りを運んでくれる季節だからです。先日郊外へちょっと出かけることがありました。山々は生命感あふれる新緑で満ちていました。5月の風はそうした自然の力、生命力といったものを届けてくれるように感じます。

ペンテコステは古くからその風との関係で捉えられてきました。直接には初代教会が誕生した出来事を指していますが、その時に降った聖霊は、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえた」と表現しています(使徒2.2)。また別の箇所では(それはイエスとニコデモとの対話においてですが)、聖霊は次のように言い表されています。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3.8)。こちらの風は静かで、しかもなかなか奥行を感じさせる霊の働きです。

今日の聖書(コリント書)、すなわち使徒パウロの手紙でも、霊について述べられています。それは風としてではなく、旧約聖書と新約聖書との関係を霊の視点で述べているのです。旧約聖書は、特に「モーセの十戒」を代表としたもので、それに対して新約聖書、すなわちイエス・キリストによってもたらされた新しい契約を対比させています。モーセという人物は旧約を代表する預言者で、特にシナイ山において神から十の戒めを授与されました。いわゆるシナイ契約のもとになるもので、その出来事は特に出エジプト記と申命記に記されています。モーセは4040夜、一人でシナイ山にとどまり、その後、十の戒めからなる契約の言葉を2枚の石の板に書き記しました(出エジプト34.28)。それが十戒で、律法とも呼ばれるようになり、その後の旧約時代の民の信仰のみならず、全生活の基となっていくものでした。

ところがその旧約時代には限界がありました。それは十戒をはじめとした律法に問題があったからではありません。そうではなく人間の弱さ、不信仰がモーセの律法を生かすことができなかったからです。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」。「あなたの父母を敬え」。あるいは「隣人に関して偽証してはならない」といった戒め。こうした何々しなさい。また何々してはならない、といった戒めが人々に語られました。それは現代のわたしたちにおいても同じように言えることですが、わたしたちが生きていく上で必要な教えは十分に知っています。けれども問題はそれを十分に行うことができないことです。それがすばらしいことは分かる。しかし実行する力がない。だから自分をごまかしたり、そのように偽って生きていかざるをえないのが実情なのではないでしょうか。

そうした旧約時代とキリストによる新約を次のように対比して語ります。「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています」。そして次です。「墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」(3節)。ここには旧約と新約の特徴が対になって二組語られています。「墨ではなく生ける神の霊によって」。「石の板ではなく人の心の板に」がそれです。前者は旧約を、そして後者はキリストによる新約を示しています。中でも後の組「石の板ではなく人の心の板」は、モーセの十戒が石の板に記されたことに対し、それを受けつつキリストによる福音を語っています。これに関しては、わたしたちの週報の5月の聖句も、今日の箇所に影響を与えています。これは聖霊降臨節を念頭においてわたしが選んだものです。それは預言者エゼキエルの言葉、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」。ここでの「肉の心」は、今日の箇所にある「人の心」と同じ意味だと理解してよいと思います。

さらに旧約新約の対比が続きます。「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました」。しかもこう述べます。「文字は殺しますが、霊は生かします」(6節)。それはどういう意味でしょうか。パウロはこのように対照化しています。モーセを代表とする旧約時代、それは「石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務め」。あるいは「人を罪に定める務め」とさえ呼びます。それに対してキリストによる恵みは、「霊に仕える務め」であり、また「人を義とする務め」でもありました。そうした旧約時代の限界を抱えた時代であっても、モーセを代表とした律法がいかに栄光を帯びていたとするならば、ましてキリストの時代はどれだけすばらしいかということです。それを際立たせるものが聖霊でした。「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない」と語るとおりです(ヨハネ6.63)。

またモーセが神から十戒を授与されたとき、自分の顔がまばゆいばかりの光を放ったため、自分の民と語るときには顔に覆いをかけたことについて触れられています(出エジプト34章)。その覆いをパウロは心の覆いとも捉えながら、聖霊による新しい命、自由を語っています。「今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」(14-16節)。

今日は聖霊降臨日、それは旧約時代の限界の中にあって、しかもその時代の預言者たちによって指し示されてきたもので、今ここで実現しました。それは教会が誕生したこととして特に記念しています。先週わたしたちの教会は創立81周年の記念礼拝を守りましたが、それを実現させたのも聖霊の働きによるものであり、今もその働きによってわたしたちは守られ、教会はたっています。その聖霊の働きについて、パウロは今日の箇所で次のように結んでいます。「ここでいう主とは、霊のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(17-18節)。その神の霊が今もわたしたちと共に、そしてわたしたちの内にあって働いておられるのです。