エフェソの信徒への手紙3.20~21 (2018.11.18) 

8週にわたって学んできました「主の祈り」、いよいよその最後の箇所を迎えました。「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン」。これまでの7回の学びから分かりますように、「主の祈り」はイエスが教えられた祈りであり、それは聖書に基づいていました。もっとも礼拝の中で唱えられる「主の祈り」の言葉と、聖書本文とは必ずしも一致しているわけではありませんでした。後の教会によって聖書に基づきつつも、新たに礼拝用として整えられたものからです。それでも聖書にそれらの祈りの言葉を見出すことはできました。ところが今日の最後の箇所となりますと、これは聖書の中には出てきません。「我らをこころみにあわせず、悪より救いいだしたまえ」で聖書は終わっているからです。ただし、このような言い方は正確ではないかもしれません。聖書によっては、この第8番目の祈りが、聖書本文に加えられているものもあるからです。代表的な聖書としては、1611年発行のイギリス欽定訳聖書(キング・ジェームズ訳)ではないかと思います。そこには「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン」という言葉が、マタイ福音書6.13「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」に続いて記されています。従ってこの聖書を用いる教会では、司式者がこの言葉も読むことになります。他の聖書では本文に入れるまではしなくとも、下に脚注として「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン」は他の写本にはあると小さく説明しているものもあります。日本語聖書では昨年発行された「新改訳2017」がそうしていますし、わたしの持っている大正5年(1916年)の文語訳聖書もそのような表記しています。ただ大方の聖書では、この最後の祈りはイエス自身の口から出たものではなく、後の教会による加筆という判断が支配的で、従って聖書本文に入れないという傾向にあります。現在のわたしたちの聖書がそれです。このようにして礼拝の中で祈る「主の祈り」と、聖書本文とは最後の祈りに食い違いが生じているのです。

「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン」。以上のような理由から、この祈りはイエスの教えられた祈りの中には出てきません。しかし出てこないからと言って、聖書の中にはこうした祈りがないというわけではありません。この最後の祈りは、神を讃えるというもので一般には頌栄と言います。ギリシア語で栄え(栄光)を「ドクサ」と言い、そこから頌栄をドクソロジーと言います。これは礼拝の中でも重要な項目で、わたしたちの教会でも頌栄は終わりから3番目に必ず出てきます。ここでは讃美歌として神を讃えていますが、内容は同じです。讃美歌の中には頌栄が数曲入っています。

聖書の中には今日取り上げましたエフェソ書の1節もまた「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン」と同じ頌栄に属します。「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」。こうした神を讃える頌栄は、他にも多く見られますが、中でも「主の祈り」との関連でよく開かれるのが今日のエフェソ書と、旧約聖書では歴代誌ではないかと思います。その旧約ではダビデの祈りとして次のような祈りがあります。「偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる」(歴代誌上29.11)。いずれも神の栄光と力がとこしえにありますようにという賛美であることで共通しています。それは言い換えれば、人間が栄光を受けるのではなく、この地上の何かが神に代って力を得るということではないというでもあります。

「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり」。ここには国、力、栄えの三つが出ています。これは「主の祈り」の最初の三つの祈願と対応もしています。「ねがわくはみ名があがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。みこころが天になるごとく、地にもなさせたまえ」。ここでは神の名、国、心(意思)が祈られました。その後、わたしたち地上の生活に関する祈りがなされ、そして最後にもう一度、神が崇められ、神の栄光が祈られるという形で「主の祈り」は閉じられています。讃美歌第二編の1番は「こころを高くあげよう」で、礼拝の中でもよく歌います。また愛唱讃美歌の集いでも、この讃美歌がよく選ばれています。わたしも好きです。この「こころを高くあげる」とは信仰者の姿勢をよく表していると思います。下ばかり見ているのではなく、地上的なものだけをすべてとしているわけでもない。そうかといって、上ばかり見ているのでもありません。こころを、そして目を高いところに向けながら、この地上における日々の生活に励む、それがわたしたち信仰者の姿だといえます。

そして最後はアーメンで結ばれます。アーメン、これはヘブライ語で、旧約聖書の人々、新約時代のイエスをはじめ使徒たちが使った言葉と同じです。その後の世界の人々は、この言葉を自分たちの言語に翻訳することなく、同じ発音をしてきました。日本語でもそうです。意味は「確かに。そのとおり」ですが、そのように訳さず、そのままアーメンと言っているわけです。「ハイデルベルク信仰問答」(16世紀)の一番最後、問い129はこのアーメンについて語っています。問「アーメンという、小さな言葉はどういう意味ですか」。答「アーメンというのは、これは真実であり、確かであるに違いないということです。なぜならわたしたちの祈りは、自分の心の中に、自分がこのようなことを神に求めている、と感ずるよりもはるかに確かに、神によって聞かれているからです」。

わたしたちの祈りは信仰によって成り立っています。祈りの言葉が素晴らしければ神さまは感動し、まずければがっかりする。それによって祈りが聞かれたり、そうでなかったりするものではありません。主イエスは祈りについて、くどくどと述べてはならず、言葉数が多ければ聞き入れられると思い込んでもならないと注意され、天の父は願う前から、あなたたがに必要なことをご存じであると言われました(マタイ6.7以降)。だからわたしたちは確信を持って、はっきりアーメンと唱えて祈りを結ぶことができるのです。わたしたちの日々の生活には、なかなか思うようにいかないことがあります。人には語りずらいいろいろな悩みがあり、病があり、それが家族にも及びますと心配はいっそう大きくなっていきます。進路や将来のさまざまな不安もあります。そうしたことをわたしたちは祈りますし、また祈るべきでもありましょう。たとえその願いがすぐには実現せず、そこには忍耐が求められることはがありますけれど、神の深い配慮の中、祈りは必ず聞かれること、神はわたしたちの必要をすべて、またすでにご存じであることを確信して祈っていくのです。