イザヤ書55.1~11 (2018.12.9) 

アドベントを迎え、初めの1週間の歩みを終えました。その中で先週は、二つの新しい集会を開きました。一つは、日曜日の夕方にイルミネーションの点灯式を行ったことです。わたしが最初に聖書朗読やショートメッセージ、そして祈祷を行い、その後に点灯、それに合わせてクリスマスの讃美歌を数曲共に歌いました。道行く人も立ち止まり、中には親子で共に参加する家族もありました。20名には届きませんでしたが、それにしても多くの人々の参加でした。お隣のイルミネーションに比べれば地味かもしれませんが、わたしたちは主を待ち望む信仰においては十分な明るさを持っていると思います。

もう一つは山中忍さんのお宅でクリスマス家庭集会を開いたことです。ここにも20名を少し切れるくらいの多くの仲間が集まりました。こんなに多くだと、もう家庭集会というよりは一つの教会の集まりといったほうがよいかもしれません。最初は牧師の聖書朗読や話を中心とした短い礼拝、その後にお連れ合いの田之助さんのベッドを囲み、クリスマスの讃美歌を何曲か歌いました。そして食事を共にしながらの交わりです。こうしたキリストを信じる者たちが集まるその一つひとつの積み重ねが、やがておとずれるクリスマスを頂点とした大きな救いの喜びとなるのではないでしょうか。

待降節第1主日の礼拝では、エレミヤの預言の言葉を聞きました。王国の滅亡の時代であり、エレミヤは獄舎に捕らわれていて、そこから語られた言葉です。そして今日の第2主日はイザヤ書を取り上げました。イザヤ書は全部で66章から成る大変長い預言書ですが、1人の人が書き下ろしたという書物ではありません。1章から39章まではその中で名乗っているとおりイザヤ自身によって書かれたものです。しかし40章以降は、文体や内容等が明らかにそれまでとは違っています。これはバビロン捕囚が終わりユダヤの民が解放された頃の預言で、39章までのイザヤ書から約200年後の時代に語られたものと言われています。それが40章から今日の55章までで、一般にはこの著者を第2イザヤと便宜上呼んでいます。第1イザヤと第2イザヤほどの時代的な開きはありませんが、残りの56章から終わりまでを第3イザヤと研究者によっては区別する人もいます。従って今日の55章は40章から始まっている第2イザヤの最後の章(結び)ということになります。

そのように見ますと、このイザヤの中心となるのは神の言葉といってよいと思います。10節にこうありました。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない」。神の言葉の確かさ、神が語られたことは必ず実現するというものです。それは40章の冒頭でも力強く述べられています。「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(6-8節)。とこしえに立つ神の言葉。それに対する人間の移ろいやすさ、そこから語られる言葉の不確かさと一時性。そのような著しい違いが示されているのです。

その主なる神がこの朝、招きの言葉をもってわたしたちを呼びかけてくださいました。「渇きを覚える者は皆、水のところに来るがよい」。あるいは「穀物を求めて、食べよ」。これはイエスが語られた招きと共通しています。主はサマリアの女に言われました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4.13-14)。あるいはこうも言われました。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(同6.27)。このように主イエスは喉を潤す水、おなかを満たす食べ物を与えつつ、さらにその奥の深いところで魂のいやしを与えてくださいました。それが今日の箇所でイザヤが言う、「わたしに聞き従えば良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう」(2節)ということでもあります。

救い主イエス・キリストの誕生は、ダビデに約束された契約の新たな更新でもあります。それは以前の限界があった旧い契約とは違い、「真実の慈しみ」に満ちたとこしえの契約でした。そこには主の豊かな憐れみがあり、また赦しがありました。だからわたしたちもその恵みにあずかるために、主に立ち帰ることが求められているのです。「主を尋ね求めよ、見いだしうるうちに。主を呼びも求めよ、近くにいますうちに」(6節)。実際、インマヌエルなるキリストは、わたしたちのすぐ近くに、友として、また僕として一緒に歩いてくださる方でした。

そのように近くの神となってくださいましたが、同時に神はまことに遠い方でもありました。イザヤはこう言っています。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている」。つまりわたしたちがこうだと思っていること、あるいはそのように自らが考えて歩んでいる道、それは神の道ではなく、神の思いとは違っているということでしょう。それゆえにわたしたちは人間から神に近づくことができません。思いや行いが食い違っているからです。アドベントを歩むということは、そしてクリスマスを待ち望むということは、わたしたちからではなく、神がその独り子をこの世の遣わされることによって、神のほうからわたしたちに近づいてくださったということです。そのときわたしがこうと思っている以上に、よりわたしにふさわしい思い、わたしが現在歩んでいる道以上に、よりわたしにふさわしい道が主によって備えられていくのではないでしょうか。まさにエフェソ書で次のように語られているとおりです。「あなたがたが…キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(3.18-19)。こうした恵みがわたしたちに与えられるのは、主イエス・キリストによるものでした。この方の到来をわたしたちは心から待ち望みなが、希望と喜びをもって今週も歩んでいきたいと思います。