ルカによる福音書5.1~11 (2019.1.13)
聖書において「呼ぶ」という言葉は重要な意味を持っています。それは単に名前を呼ぶということにとどまらず、信仰への招き、選び、さらには特別の働きへと導く(召命)という関係にまで至るものだからです。そこでは誰が呼ぶのか。それは神であり、イエス・キリストでもあります。誰が呼ばれるのか。それは聖書の中の人々であり、また今日のわたしたち一人ひとりでもあります。わたしたちは自分一人で立っているわけではありません。キリストに呼ばれた者として生きているのであり、しかもここが一人ひとりの生涯の初め(原点)ともなるのです。
今日の箇所は弟子たちが呼ばれるところ、その召命についてです。これは4つの福音書すべてに記されていますが、すべて同じような内容ではありません。ルカ福音書はその中でも、ガリラヤの漁師たちがどのようにイエスの呼びかけによって弟子となっていくかを、生き生きと描写しているのが特徴です。わたしたちはこの聖書が語っているとおり、ペトロに焦点をあてて、彼が信仰者へと、また弟子へと召されていく様子を辿ってみたいと思います。
イエスがゲネサレト湖畔(ガリラヤ湖)に立って、話をしておられたときのことでした。多くに人々がその周りに押し寄せてきました。そのときイエスの目はそうした群衆に向けつつ、同時に近くにいた漁師たちにも注がれていました。彼らは何をしていたかといいますと、舟から上がって網を洗っていたのでした。この後の遣り取りからも分かりますが、このときは朝方だったようです。ちょうど今わたしたちが礼拝を守っているような時間かもしれません。漁は夜に行います。そして昨夜は何もとれませんでした。徹夜の労働からくる疲れ、そして収穫のない働きにより、彼らは二重の意味で疲れを覚え、そうした中で網を洗って後片付けをしていたのでした。そのような漁師たちの一人ペトロにイエスは声をかけられました。3節の「岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった」がそれです。イエスはこの舟の上でさらに人々に聖書の話をされました。当然ペトロも舟に乗っていたわけですから、イエスの話は耳に入っていました。
そこから次の段階に入ります。4節、イエスは話し終わったときシモン(ペトロ)に、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。ここからはペトロだけとの遣り取りになります。先程の「岸から少し」に対応するのが、この「沖に」という言葉です。これは直訳しますと「深いところ」という意味です。深いところだから沖という意味なのでしょうが、距離的な近さ遠さというだけでなく、深さがここで語られているのです。最初は岸から少しばかり漕ぐだけのように、いきなり大きなことができるわけではありません。少しでよいのです。信仰の成長においてもいきなりたくさんのことを行うというのではなく、一歩ずつという足取りで確実に歩んでいくのではないでしょうか。しかしいつまでも少しであってはなりません。そうした働きをとおして、沖へ、深みへと向かうことが必要だからです。そこには新たな挑戦があるでしょう、それが試練ともなるかもしれません。しかし岸の近くを少しだけ漕ぐ世界では気づかない大きな恵みをも体験するのではないでしょうか。
ペトロにとってその戦いとは何だったのか。自分の知識、自分の経験、自分の思いと、イエスの言葉を信ずることとの間にある戦いでしょう。イエスが「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われたとき、ペトロはこう答えています。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたたが、何もそれませんでした」。ペトロはガリラヤ湖を生活の場としていた漁師です。その世界ではプロでした。そのペトロに向かって網を打てとは。しかも昨夜は何もとれず、漁にはまったく不向きな朝にそれを命じられたのですから、ペトロのとまどい、こうした消極的な態度は当然かもしれません。それはペトロの経験から来た知恵でもありましょう。それでも彼の心は自分の思いでいっぱいというのではなく、もう少し人の話を聞く余裕があったのでしょう。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と、イエスの言葉に従いました。果たしてペトロの経験を裏切り、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになるほどでした。そこで仲間の舟にも手助けを頼んだのですが、その2そうの舟とも沈みそうになったほどでした。
これを見たペトロはイエスの足もとにひれ伏しました。第三段階です。ペトロはイエスを「主よ」と呼びました。網を降ろす前は先生でした。これは地上的な意味で、上に立つ者、指導者という意味です。漁に関しては自分の方がはるかによく知っている、そんな思いで、やや冷やかに使った言葉です。それに対して今ここで「主よ」と呼び変えました。もう先生ではありません。これは神の称号と一つであり、信仰の告白につながるものです。そして「わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言いました。いったいこれはどういう意味なのでしょうか。ここでどうして罪という言葉が出てきたのでしょうか。ペトロは直前に何か罪に相当するような悪いことをしたわけではないのに、いったいその罪深いとは何を指しているのでしょうか。おそらく具体的に何か罪を犯したというよりは、これまでのペトロの歩み全体を指しているのではないかと思います。自分の経験、自分の知恵だけでこれまで生きてきた。信仰もあったからもれない。しかしまず第一には自分自身の思い、自分の考えが優先してきた。その上で少しばかりの信じる心。そうした固い自分、しかし反面空しい不安定な自分が、圧倒的なキリストの力の前に砕かれたのでした。まさにヨブ記の中のヨブ、彼が最後の結びで次のように語ることと似ています。「あなたのことを耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(42.5-6)。その自分というものがペトロのこれまでの支えであり、反面沖へ漕ぎ出すことにおいてはもっとも弊害となっていたのでした。
「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。これがペトロに対するイエスの招きであり召命です。そこでペトロをはじめ他の漁師たちは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従いました。この「すべてを捨てて」の中には、自分自身も含まれていることは言うまでもありません。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9.23)とあるとおりです。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」。そのようにイエス・キリストの前に立つにまったくふさわしくないと思ったペトロ、そしてわたしたち一人ひとり。そんな者に対して名を呼んでくださり、信仰へと招いてくださいました。そして一人ひとりに最初は小さな働きを、次に沖へ漕ぎ出すようにとの役割を与えることによって、いっそうより深い交わりへと導いてくださいました。神から離れて生きるのはなく、いつも共にいてくださる、その主イエスとの交わりのもとにわたしたちは歩むことがゆるされているのです。