ルカによる福音書21.1~9 (2019.1.27)
毎週の礼拝で朗読され、そこから宣教がなされる聖書の区切られた箇所はペリコーペといわれ、古代教会の時代から教会暦に基づいて定められてきました。わたしも現在教団出版局が発行している聖書日課を用いています。わたしたちが用いている新共同訳聖書は、内容ごとに小見出しをつけて区分しています(それは聖書の本文ではありません)。世界の聖書はだいたいこうした傾向にあります。聖書日課が示す聖書区分と聖書自体の区分が一致していれば(多くはそうですが)問題はありませんが、ときどき違うことがあります。今日の箇所がそうです。今日の聖書日課は先程読んでいただいたように1節から9節まででした。ところが新共同訳聖書ではそうした区切りは中途半端になっています。こういうとき、わたしは聖書の区切りのほうに合わせて、6節までにするとか、もう少し長く19節までにするかを考えます。他の聖書をいろいろ参考にしました。わたしは日本語と外国語を合わせて15冊ほど聖書を持っています。それらをすべて調べましたが、ほとんどが新共同訳聖書と同じか、それに近い区切り方をしています。ただ1冊だけ、今日の聖書朗読と同じ区切り方をしている聖書がありました。英語標準訳という2001年にアメリカで発行された聖書です。また日本語口語訳聖書も(この聖書には小見出しはない)、9節までを一つの段落として閉じていることは似ているかもしれません。
今日のような区分ですと、内容は二つに分けられます。一つは前半のやもめの献金で1節から4節まで、これは本聖書と同じです。後半はイエスが神殿の崩壊を予告する箇所で、それが5節から9節までとなります。そして全体の中心となるのが神殿です。神殿を巡る二つの話から、そして神殿に対する人々の態度や見方から、神殿とは何かが語られているのです。
神殿とは何か。その一つは献金を通して示されました。イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられました。また別の一人の人の献金の様子も見ておられました。それは貧しいやもめの献金です。やもめは聖書の時代孤児や寄留の民(今日の難民のようでもある)と並んで、もっとも貧しい人々、人々の保護を必要とする人々でした。そのやもめがレプトン銅貨二枚を献金しました。レプトンという通貨は、1デナリオン(一日の賃金)の128分の1に相当します。従って小銭と言ってよいようなお金です。女性は多くの金持ちたちが多額の献金をしている中にあって、つらい思いをしていたかもしれません。ところがイエスは違って見方をしておられました。こう言われたのでした。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」。
「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」。これがイエスの目に映った献げかたでした。この「たくさん」という意味は、もちろん数字の意味でのたくさんではありません。まもなく年度末がやってきます。教会の会計さんは年度当初立てた予算に対して、どれだけ実績を積んでいるか、その見通しはといった数字とのにらめっこが続きます。どれだけたくさん収入が与えられるかが、そこで重要なことであるかは言うまでもありません。しかしこのたくさんには、もう一つ別の意味が含まれているのでした。日本でも「長者の万灯より貧者の一灯」ということわざがあります。目に見える金額の多い少ないではなく、その人の献げるという内面もまた重要だということです。献げるとは、単に金額の動きだけをいうのではなく、自分自身をどれだけ主に委ねるのか、すなわち献身をも指し示しているのではないでしょうか。パウロは言いました。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝である」(ローマ12.1)。献金はお金の動きではありますが、もっと根本のところでは献身や信仰がそこに伴っているものなのです。そしてそこにはレプトン銅貨二枚という「たくさん」もあるのでした。
神殿についてもう一つのことが語られています。それは建物としての神殿です。人々が目の前にある神殿が見事な石と奉納物で飾られている、その素晴らしさ、荘厳さに見とれていたときのことでした。この神殿はヘロデ大王が自らの政治的力を駆使して修理建設した建物で、さぞかし地方から来た者にとってはいっそう立派に見えたことでしょう。しかしここでもイエスは別の見方をしておられました。こう言われたのです。「あなたがたがこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」。事実、この見事な神殿はその後ローマ帝国の攻撃を受けて崩壊しています。その姿は今日に至っている通りです。
神殿は旧約時代からユダヤの人々にとって信仰・精神、さらにはすべてのよりどころでした。最初に完成させたのはソロモンです。そのソロモン、彼は献堂式の中でこのように祈っています。「神は果たして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。わたしの建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」(歴代誌下6.18)。ここには神殿の意味とその限界が語られています。古くは会見の幕屋と言われていたように、ここで神と民が出会う場所として捉えられてきました。そうした信仰のもとで建物が立派になるならば、それはそれで意味があります。けれども信仰が形骸化して、外側の建物ばかりに見とれているならば、たとえそれが神殿であったとしても「バベルの塔」と同じになってしまうのではないでしょうか。欧米における立派な教会、京都などの神社仏閣なども同様で、いつも目に見える外側は内側の信仰と一緒に進まなくてはならないのです。
献げるということを通して示された神殿、そして目に見える建物としての神殿、それらは今日の私たちにとってどのような意味を与えるのでしょうか。パウロはコリントの教会に向かって言いました。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(1コリント6.19-20)。もはや建物として神殿ではなく、あなたがた自身が聖霊の宿る神殿なのである述べているのです。これこそ現在の教会にほかなりません。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」とイエスは言われました(マタイ18.20)。このようにキリストに贖われた者たちが集まる教会、そこに宿る聖霊の導きを受けながら、わたしたちは自分の体をもって神の栄光を現していくことができ、そのように導かれているのです。そのときわたしたちが献げる献金も、わたしたちが属する建物としての教会もふさわしい意味をもってくるのではないでしょうか。