出エジプト記2.1~10 (2019.11.17) 

旧約聖書の中でもっとも有名な、あるいはもっとも偉大な人物を上位3名挙げるとしたら、それは誰になるでしょうか。別に3名でなければというわけでもありませんが、日本式に日本三名園とか日本三景になぞらえての話です。それはアブラハム、モーセ、ダビデという名前を出すことに、多くは異存がないと思います。これは現代のわたしたちだけでなく、新約時代の人々にとっても同様でした。その証拠に新約聖書にこの3人の名前が出てくる回数を調べましても、その圧倒的な多さから、すでに当時の人々にも大きな影響をもたらしていました。

その一人、モーセの誕生物語が今日の箇所に記されています。ここ2章、もう少し正確には1章から読みますと、モーセは実に数奇な生涯をその初めから担っていることが分かります。イスラエルの民は、ヨセフがエジプトで宰相というナンバー2の地位にまで上り詰めたことにより、彼を頼って一族はエジプトにやって来ました。やがてエジプトではヨセフを知らない新しい王が現れ、イスラエルの人々を快く思わなくなりました。まして彼らの人口がいっそう増えたことによって、そのことが脅威となり、恐れや警戒心から敵意さえ持つようにもなりました。そこでエジプト王ファラオは彼らに重労働を課し、迫害をするようになりました。それだけではありません。男児殺害命令を出し、生まれた男の子は一人残らずナイル川にほうり込めとの命令を出したのでした。

モーセが誕生したのは、こうしたイスラエルの民にとっては厳しく暗い時代でした。今日の2章冒頭にありますように、「レビの家の出」とありますので、どちらも祭司の家系の者ということです。両親となる二人の名前はここに出てきませんが、6章を見ますと父はアムラム、母の名はヨケベドと言いました。彼らに生まれた子どもは男の子でした。その子の余りのかわいさゆえ、彼らは子どもをしばらく隠しました。3カ月ほど隠して育てましたが、もはや隠しきれなくなったためパピルスの籠を用意し、アスファルトなど防水を施して幼子をその中に入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置きました。彼らは神の救いを信じ、その摂理に委ねたのでしょう。

ある日、エジプト王ファラオの娘が水浴びのため川に下りて来ました。そこで葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取りに来させました。開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていました。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言いました。そのときそうした様子を隠れて見ていたモーセの姉が機転を利かせて申し出ます。「その子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか」。王女が「そうしておくれ」と頼んだので、姉は早速モーセの実の母を乳母として連れて来ました。そこで乳母は王女から手当てをもらいながら、その子を引き取り自分で育てていきました。その子が大きくなると(おおよそ3歳くらいと言われます)、乳母はその子を王女のもとへ連れて行き、こうして子どもは王女の子として育っていくことになったのです。名前は両親によってではなく、エジプトの王女によってモーセと名付けられました。

このように見てみますと、確かに数奇な運命の始まりといって十分だと思います。世の中にはエジプト王ファラオのイスラエルの民への虐待と男児殺害命令が出ていた。そうした迫害の下で生まれたモーセ。パピルスの籠に入れられてナイル川に浮かぶこの幼子は、まさに無力そのものを表しています。しかしそうした無力な子どもにも、神の御手が働いていました。何よりも殺害命令を出したエジプト王の娘によって、この子どもは保護され、その下で育てられていくのでした。さらには母親から一度は手放されましたが、姉の機転によって再び母親の手に戻り、そこで育てられることになったのも、また不思議な導きでした。これを神の摂理と呼んでよいのではないでしょうか。どのような逆境と見える厳しい境遇にあっても、そのことだけで、一面だけで神から見捨てられたとは決していえない。そうではなく、われわれ人間には理解できないことであっても、そこには神の不思議な御手、御計画が用意されているということです。

「ロビンソン・クルーソー」という17世紀の小説は、一般に冒険小説として親しまれています。船が遭難して絶海の孤島に流れ着き、そこでたった一人生活を切り開いていく物語です。次から次へと起きる新しいことに対応していく冒険として実におもしろいのですが、同時に信仰的な書物としても味わい深いものがあります。クルーソーは一人で生きていくべき生活の工夫をしながらたくましく歩んでいきます。あわせて聖書と向き合いながら自分の内面をも開拓していくのです。たとえばこの島にたった一人だけ自分が生きていかねばならない惨めな境遇を嘆く自分がいる。反面、他の仲間は皆死んでしまったのに、自分だけが生かされているという現実に神の光を見ます。そして自らにこう言うのです。「どんな悪いことでも、その中に含まれている良いこと除外して考えてはいけない」。それはまた逆も真であり、「どんな良いことでも、その中に含まれている悪いことを除外して油断してはならない」とも言えます。彼はそこで、ちょうど貸借対照表のように、良い点と悪い点を一つ一つ書き出してみるのでした。そしてそこで分かったことは、どのような痛ましい境涯に置かれたとしても、そこには必ず感謝に値する、心を励ましてくれる何かがあるということに気づくのでした。それはまさにパウロがローマ書で語る次の言葉を思い起こさせるのではないでしょうか。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(8.28)。

こうして危機的な境遇を切り抜けていく幼子モーセは、やがてイスラエルの民をエジプトの圧政から救い出す指導者となっていきました。そのことはまたわたしたちがこれから準備して、待ち望んでいく救い主イエス・キリストを指し示すものでもあります。その数奇な誕生といえば、イエス御自身もまったく同じでした。イエスの時代の権力者はファラオではなくヘロデ王でした。そしてそこでも2歳以下の男の子の殺害命令が出され、実際執行されていきました。そうした困難な境遇の中、無力な幼子と同じく無力な両親は、東からの博士たちにより、また天使や星の導きを受けながら危機をくぐり抜けていったのです。やがてイエスは、モーセがイスラエルの民を解放したように、単にイスラエルの民だけでなく全世界の人々を、しかもその罪の支配から人々を解放していくことになります。モーセの誕生を読みながら、このようにやがてお生まれになる神の独り子に心を寄せてわたしたちは歩んでいきたいと願います。