神の慈しみと厳しさ   ローマの信徒への手紙11.11-24   2020.7.12 

ねたむ(ねたみ)という言葉には、よいイメージがありません。それは聖書でも同じです。ただそのようなマイナスのイメージだけでもありません。何よりもこの言葉は神に使われています。モーセの十戒の第二戒に「わたしは熱情の神である」と出てきます。この熱情はねたみと同じ言葉です。ジェラシーです。前の口語訳聖書、そして最新の協会共同訳では「ねたむ神」と訳しています(出エジプト20.5)。この場合のねたみ、それは他の神々にひれ伏してはならないというところからきています。神とイスラエルの民は婚姻のような関係にあるのだから、その関係を裏切ることになるというものです。それがねたむ神であり、別の面から言えばそれほどイスラエルを愛しているという意味です。

これが人間どうしの関係になりますと、よい意味とはなりません。ジェラシー(ねたみ)というのは、他の人が自分より優るのを見たときに気にさわるような心理です。たとえばヤコブは年老いて生まれたヨセフを他の兄弟たちよりいっそう可愛がったので、兄たちにねたみが生まれヨセフをエジプトへ売ってしまいました(創世記37.3以降)。ねたみとはこのような否定的な心理で、それゆえ聖書では悪徳のリストとして必ず出てきます。争い、ねたみ、怒りなどというようにです(2コリント12.20)。

今日の聖書にそのねたみが2回でてきます。「それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです」(11節)。「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ」(14節)。ここでのジェラシーも、同じように他の人が自分より優っているのを見たときの気にさわる心理に基づいています。ただその心理が別の方向へと動く、言い換えれば積極的な方向へ向かう、そのようなねたみです。だからここはねたみと訳さず、奮起(口語訳)とか発憤と訳す聖書もあるのです。

ローマ教会の構成は、ユダヤ人クリスチャンより、異邦人からクリスチャンになった人々の方が多く、また力を持っていたのかもしれません。それゆえ13節でこんな言い方がなされているのではないでしょうか。「では、あなたがた異邦人に言います」。もう教会は主キリストにあってはユダヤ人も異邦人もなく、同じローマの信徒ですし、呼びかけとしては「兄弟たち」が一般です(12.1)。ところがここではあえて「あなたがた異邦人」と彼らの出身に触れているのです。前後関係から、異邦人クリスチャンがユダヤ人に対して誇っていた、思い上がっていたということが見て取れます。イスラエルの人々は長い旧約の伝統、契約の民という恵みにあずかりながら、それを生かすことができず、神の独り子イエスを拒絶し、十字架につけ、今もキリストの信仰に背を向けている。その反面、異邦人たちが次々にキリストを告白し、教会を建てていく。ここローマの教会も同様です。そうしたことを背景に、異邦人キリスト者の誤った思い上がりがありました。

確かに福音伝道の流れはユダヤ人から始まって、異邦人へと告げ知らされていきます。それは現在に至っても同じです。それならユダヤ人はもう捨てられたのだろうか。忘れられた過去の民なのでしょうか。そうではありません。再び彼らにも救いの機会が与えられることになるからです。そこで役割を果たすのが「ねたみ」(ジェラシー)なのです。イスラエルが旧約以来神と共に歩むことがゆるされていた大いなる恵み、それが今は異邦人が同じ恵みにあずかっている。自分たちを差し置いて。自分たちはもう一度奮起して、この恵みにあずかり、かつての神の民のように歩んでいきたい。それがパウロの祈りであり、宣教の道筋でもありました。「彼らの(イスラエル)の罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう」とはこのような願いを述べたものです(12節)。「もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう」(15節)と、死者の中からの復活とまで言っているのです。

けれども、だからといって異邦人キリスト者がイスラエルより優れていたわけではありません。「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」と戒めるのはそれゆえです。なぜなら救いは、ただ一方的なキリストによる恵みによるのであり、人間の能力や働きによるものではないからです。そこでパウロはオリーブ畑おける剪定とか接ぎ木を用いて語るのでした。「神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、おそらくあなたがたをも容赦されないでしょう」(21節)。これは大切に育ててきた枝のイスラエルを切り取られたのだから、そこに接ぎ木されたあなたがた(異邦人)が、もし思い上っているような誤った信仰の道を歩むなら切り取られるでしょうということです。そしてもう一度、イスラエルという枝を接ぎ木するというのです。その枝の方がより簡単に元のオリーブの木になじみます。

だから言うのでした。「神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう」(22節)イスラエルが切り取られる、それは決して最後の言葉ではありません。再び接ぎ木される可能性があるからです。反対に異邦人とて同じです。もし不信仰にとどまり、思い上がっているようなら切り取られるからです。わたしたちの信仰の道も同じです。今ある状態、それが落ち込むような状態であれ、うまく行っている状態であれ、それは決して最後の状態ではないのです。ただいつも「神の慈しみと厳しさ」の前に立っていることを忘れてはなりません。だからわたしたちはこのような勧めの言葉を聞くのです。「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ2.12-13)。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

聖霊降臨節第7_2020年7月12日