神の霊が鳩のように マタイによる福音書3.13-17 2021.1.10
昨年にイエスの誕生であるクリスマスをお祝いしました。そしてその次には、イエスとその家族のエジプト逃亡とガリラヤのナザレへの帰還の箇所を読みました。これは先週のことで、マタイによる福音書だけに記されている記事です。この二つの物語は時間的に大きな開きはなく、ほぼ連続した出来事として辿ることができます。それに対して今日のイエスの受洗の箇所は、それまでの二つの出来事との間に約30年の時間の開きがあります。ルカによる福音書によれば、イエスが宣教活動に入ったこの時は30歳の頃であったと記されています(3.23)。これ以降を公生涯と言いますが、聖書はそれ以前のイエスについてはクリスマスを除いてほとんど語っていません。やはり同じルカがもう一つ、イエスが12歳の時のエピソードを入れているだけです(2.41)。
バプテスマのヨハネがヨルダン川で人々に洗礼を授けていたときのことです。イエスがガリラヤからヨハネのもとに来られました。彼から洗礼を受けるためです。ところがヨハネはその申し出を思いとどまらせようとしました。当然かもしれません。今日の箇所の直前の11節でヨハネは「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」と言っていた、まさにその方が今自分の前に来られたからです。だからヨハネのこのとまどいは十分理解できます。心情的なところでは畏れ多いという気持ちがあったでしょうし、信仰的には自分がイエスに洗礼を授けることは正しくない、間違ったことだという思いがあったからです。だからヨハネは言うのでした。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(14節)。
洗礼とは今さら言うまでもありませんが、わたしたちの信仰生活の初めとなり、基礎となるものです。これはユダヤ教の伝統にあったもので、後の教会がその形を継承しながら、そこに新しい意味を加えていきました。その間に立つのがバプテスマのヨハネの洗礼でした。その二つの違いをヨハネはこのように述べています。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水でバプテスマを授けている」。すなわち「悔い改めのバプテスマ」です。それに対してイエスは、「聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる」(11節)。この「聖霊と火によるバプテスマ」こそ、特に後のパウロによって鮮明にされたもの、つまりそれまでの古い自分がイエスと共に死に、新しい復活の命に生きるという終末的な出来事となっていくのです。
それではなぜイエスは洗礼をヨハネに申し出られたのでしょうか。イエスは神の子、救い主としてこの世にお生まれになりました。わたしたち人間と同じ罪人ではありません。人の罪を赦すために来られたのです。彼には赦されなくてはならない罪がありませんでした。そのイエスが罪なき方であったにもかかわらず、あえて罪の中に身を任せられようとされました。そのことはヨハネにもよく分かっていました。だからこそ、イエスの申し出を思いとどまらせようとしたのでした。
それでもイエスは言われました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(15節)。ここは微妙で、しかも重要なところです。原語では「正しいこと」に相当する言葉は「義」です。「すべての義を満たす」という意味です。「義」とは神に属するものであり、神から与えられるものでもあり、恵み、また救いのことでもあります。人間の側から見える正しさということではありません。神の目から、信仰の眼差しで捉える信仰的な判断です。イエスがここで受けようとされた洗礼は、わたしたちと同じ洗礼ではありませんし、決して一般的な意味での正しさということではありません。なぜなら彼はそうした意味での洗礼を必要とされない方だからです。けれどもそれはまことに義にかなったことだったのです。1枚次にめくった5.20でイエスはこう述べておられます。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」。律法学者やファリサイ派の人々の義とは、異邦人や徴税人たちに近づかず、自分の功績を自慢するところから来る手前味噌の義でした。それに対してイエスが示された義とは、彼らによって見下され、軽蔑されている人々と共に歩むことであり、深く自らの罪を告白する人々を救うところの義でした。主イエスの目はそのように絶えず失われた人々に向けられ、そして彼らの友となりました。ヘブライ人の手紙にこう書かれているとおりです。「この大祭司(キリスト)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(4.15)。それは十字架の死においてすら、罪人の一人に数えられることを拒まなかったことにおいてもよく表されています。イエスが受けられた洗礼とは、自らの罪のためではなく、そうした罪人の中に身を置く(連帯)ことによって罪人を救おうとされたものなのであり、そういう意味の義、正しいことだったのです。まさに従来の律法を完成させる新しい義であったのでした。
ヨハネはこの申し出を受けました。これはバプテスマのヨハネにとって重くつらい務めであり、同時に栄光ある務めでもありました。つらい務めとは、自らがかがんで履物を脱がせる値打ちもない者にもかかわらず、逆にその自分の前にかがむイエスを罪人の一人として断罪しなければならないという奉仕のゆえにです。信仰の真理においては、このように先輩後輩、親子といった人間関係や年齢や経験の壁を超えなくてはならないことがあります。自分はふさわしくないといった心情的、肉的な思いといったようなものをです。他方光栄ある務めとは、まことの義が現される出発点を担ったということです。どんなに神から遠い、自分はふさわしくないと思える人でも、イエスの受洗は救いと慰めのしるしとなりました。主イエスはその人々のために、またわたしたちのために罪人の一人として共に歩むために、ヨハネの前にひざまずき洗礼を受けることにより義を現してくださったのです。
聖霊が鳩のように降ったのはそのときです。天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえました。この旧約の言葉は、神の子である王が戴冠式において祝福された言葉であり、またもう一つは僕、すなわち苦難の僕として立てられるときの言葉でもあります。それが今ここで神の子が罪の中にある人々のために、またその人々と一緒に洗礼を受けておられたときに天から聞こえたのでした。洗礼者ヨハネの前にひざまずく神の子イエスの姿は、まさにそのような愚かで無知な者をも支え、そうした者と共に生きようとされる姿にほかなりません。そこにはわたしたち一人ひとりも加えられていることは、大きな慰めであり励ましとなるのは言うまでもありません。
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