試みを受ける マタイによる福音書4.1-11 2021.2.21
過日皆さんに連絡網でお知らせしましたように、わたしたちの敬愛する友・嶺節子さんが召天されました。腸閉塞の治療のため手術を受けられ、その後は特に何か問題があるというわけではなく、高齢者なりの回復の道を歩んでおられました。そのような内容のお電話を1週間後に受け、さらなる回復を祈っていました。ところがその1週間後、手術からは2週間後、急に容態が悪化し逝去されました。その日の午前には看護師さんとお話しをしておられたほどの状態であったそうです。ここに改めて哀悼の意を表します。
今年度わたしたちの教会は5名の方を天にお送りしました。そこには法師人さんご夫妻が入り、他の3名は野方町教会の最も古くからの信仰者でした。狐崎トシさん、田中正大さん、そして今回の嶺節子さんです。さらに言いますと、狐崎さんと、嶺さんは同じ日に洗礼を受けておられます。1950年4月9日、吉村庄一牧師からです。嶺さんはご夫妻一緒に受洗しておられます。田中さんはその3年前の受洗ですから、3名の方々は野方町教会の歴史とほぼ一緒に歩まれた方々であり、そうした方々をわたしたちは天にお送りしたということになります。
さて先週の水曜日からレントに入りました。これから日曜日を除く40日間、イエスの苦難を覚えて歩んでいきます。この受難節によく読まれるのが今日の聖書の箇所、イエスの荒れ野の40日にわたる試練です。40日はここから来ています。ただそれだけではなく、40という数字は旧約時代にモーセがシナイ山で十戒を授けられたときが40日であったこと、またイスラエルの荒れ野の旅が40年であったことにも関係しています。さらには預言者エリヤが神の静かにささやく声を聞いたのも40日40夜の試練の後でした(列王記上18)。
ここにはイエスが直面した試練が3つ出てきます。3という数字は40と同様、聖書では重要です。父、子、聖霊の三位一体の神、あるいはいつまでも残るのものとしての信仰、希望、愛、これも3です(1コリント13章)。ここでイエスが直面した3つの試練も、人間にとって最も本質的なことがら、逆に言うならば人間にとって最も弱い部分、欠けているものが示されているのであり、この悪魔の問いの前にはだれ一人として立つことができないという、極めて厳しい内容でもあります。
その第一はパンの問題、物質的な事柄です。イエスは「40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられ」ました。それほど長く断食された後ですから、「空腹を覚えられた」と表現されるような生易しいものではなく、飢えに近いような状態ではないかと思います。そのときに「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言われました。ここまで肉体的に追い詰められると、それまで自分が語ってきた主義主張とか信仰さえも、力のないものになってしまうのではないでしょうか。ことわざの「貧すれば鈍する」ではありませんが、物質は人間性に深く影響を及ぼします。それはパンに代表される経済的なことだけではありません。自分や家族の健康が損なわれるとき、人間関係がごたごたするとき、また今は受験期ですが、その学業や就職がうまくいかないとき、そうしたあらゆる現在の生活上の困難も関係しています。それにもかかわらず、イエスはここでそうしたこと、パンの解決を第一のこととはしませんでした。それ以上に神の言葉を第一としたのです。だからこの言葉に力があるのです。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。もちろんパンが必要でないというような極端なことを言っておられるわけではありません。「パンだけで生きるものではない」言っておられるのです。わたしたちはとかく窮地に陥ると、一挙にパンだけ、地上的なものが中心になってしまいがちだけに、ここでイエスが示された神の言葉を第一とすることは重要なのです。
二つめの試練は神を試みること、つまり信仰的、宗教的誘惑です。悪魔はイエスを神殿の屋根の端に立たせ、ここから飛び降りてみよと言いました。なぜなら神は手を差し伸べて助けてくださるからだというものです。その根拠に詩編91.11-12を挙げました。悪魔はそのように聖書の言葉を用いているのです。聖書の言葉も一歩間違えば自分を誘惑するものとなります。もっとも神はわたしたちが足を踏み外して危険に陥らないよう守ってくださるという信仰は大切です。けれどもわたしたちは神のみ心を第一にすべきと言いつつ、どこかで自分の都合を第一にし、そのために聖書を開き、また神を利用していることがあるのではないでしょうか。ここで悪魔が用いた詩編、よく読んでみますと、そのように解釈すべきものではなく、貧しき一人の信仰者の救いを求める謙虚な祈りです。神中心と言いつつ、いつの間にか自分のための神となり、そのように聖書を読んでいく誘惑はだれにもあるのです。
最後はこの世の権力という誘惑です。悪魔は「世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて」、もし自分を拝むならこれらをすべて与えるとイエスに言いました。人間は人々からほめたたえられる名誉や権力の誘惑、あるいはそれを失うような場面に出会いますと、「主にのみ仕えよ」という普段守ってきたと思えたこと、またそれを守っていくことができたような生活の形が崩れることがあるものです。そのために主に仕えることから離れるようなことあっても、それを手に入れたいと考える弱さもっています。しかしイエスは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と言って、この誘惑を拒絶されました。この「仕える」は正確には礼拝に相当する言葉ですから「ただ主を礼拝せよ」という意味です。神以外のなにものも礼拝してはならない、それはまさに十戒の第一戒につながるもので、人間がどこを向いて生きるかの根源的な指摘なのです。
信仰者として生きていくということは、突き詰めて言うならばこの3つの試練に、外から、またわたしたちの心の内からの誘惑に直面することでもあります。それにもかかわらず、イエスがここですでにその試練に打ち勝たれたのでした。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16.33)。わたしたちの信仰の旅路は、このイエスの勝利を信じ、その勝利にあずかる歩みでもあるのです。
※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。