宣教 「エマオへの道」 大島力牧師

ルカによる福音書 24章 13節~35節

「エマオへの道」の話の中心は何でしょうか。それは、エルサレムからエマオに向って歩いていた二人が、最初は「暗い顔をして立ち止まって」いたが、しかし、そのエマオでの出来事によって、立ち止まるのではなく、時を移さず出発して、喜びをもって自分たちが出会ったことを仲間に伝えるために、その日の内に、おそらくは暗い中、エマオからエルサレムに急いで立ち戻った。その生き生きとした動きと変化。これがこの箇所が私たちに伝えていることです。そしてその動きと変化に、私たちも巻き込まれてしまう。そのような

力をこの出来事はもっています。一体何があったので、「暗い顔」から「心、燃えるような」喜びに弟子たちは変わっていったのでしょうか。

二人の弟子の顔は暗かったと記されています。その理由は、この人こそイスラエルを解放して下さるに違いないと望みをかけていた人が、十字架に架けられ死んでしまったためです。この十字架の出来事は、イエスの弟子たちを四散させてしまいました。このエマオへ向かう二人の弟子も、エルサレムにこのままいては、イエスの弟子であるという理由で危険が及ぶかも知れない。そう思ってエマオへ逃げる途中であったのか知れません。いずれにせよ、イエスが祭司長や議員たちによって十字架に架けられたことで、もうすべてが終わってしまったと彼らは考えていたのです。その衝撃と絶望感には深いものがありました。なぜなら、この24章22―23節に書いてあることですが、仲間の女性たちが朝早く墓に行って、イエスの遺体を見いだせずいると、天使たちが「イエスは生きておられる」と告げられたこと、そのことを知っていたにも関わらず、この二人は、エマオに向けて「暗い顔をして」歩いているからです。つまり「イエスは生きておられる」。このことはすごいことですが、それを聞いても信じられなかった。それほどに、彼らは落ち込んでいたのです。

そのように心がひどく落ち込んでいると、目に見えていることも見えなくなってしまう。目の前が真っ暗になってしまう。このようなことは私たちにもあります。その典型的な表れは15-16節にあります。二人が「話し合い論じあっていると、イエス御自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」。このことは不思議なことですが、あり得ることではないかと思います。「こころ、ここにあらず」と言いますが、心の目が固く閉ざされてしまって、せっかく見えるものも見逃してしまう。このようなことはあります。

そのような弟子たちに対して、イエスは厳しくこう言っています。25節「ああ、もの分かりが悪く、こころが鈍く預言者たちの言ったことをすべて信じられない者たち」。そのように言って、モーセと預言者たちから始まって、聖書全体にわたり自分自身について書かれていることを説明しはじめたというのです。この時、どれほどイエスが心を込めて聖書全体を説き明かしたことか。この二人以外には実際には分かりませんが、本当に熱の籠った旧約聖書の説明であったと思います。そしてその中には、おそらく、イエスの受難を預言したと言われるイザヤ書53章の「苦難の僕」の詩も含まれていたのではないかと思います。

このような箇所をイエス御自身が二人に説き明かされた。それは、主イエスご自身による迫力に満ちたものであったに違いない。ですので、その時、すぐに心の目が開けて、聖書を説かれている人自身が「苦難の僕」であり、その人が受けた傷によって自分たちが癒されたと気が付く可能性はあったでしょう。しかし、この二人は、その解き明しを聞きながらも、まだ、それには気が付きませんでした。それほど、主イエスに言わせれば「物わかりが悪く、心が鈍って」いたのです。大事なひとを亡くした喪失感は深かったのです。これは決して他人事ではありません。私たちもまた、自分にとって大切な人が亡くなった直後は、そして、しばらく経っても喪失感や絶望的な暗い思いに閉ざされてしまいがちです。そして聖書の話を聞きながら、その内容が心に入って来ないことはあります。いや、そういうことが多いのではないでしょうか。ただ、この二人は、そのように熱心に自分たちに語り掛けてくれるその人に、何か特別なこと、大切なことを感じていた。だからこそ、その人ともう少し共にいて、話を聞きたい、と願ったのです。

29節「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へいこうとされる様子だった。二人が『一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた」。この「無理に引き止めた」ということが大切です。もし、そうしなかったら、イエスはなお先に行ってしまわれるのです。「一緒にお泊りください」「主よ、共に宿りませ」。これは讃美歌でもよく歌われている言葉ですが、重要なことです。「主よ、留まってください」「私たちともう少し一緒にいてください」。この願いが、次の思いもかけない出会いをもたらしたのです。エマオの夕食の場面です。

そこでは、不思議にも主イエスは、招かれた客のようにはふるまっておられません。食事の席につくと、イエスは自ら「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」。それは、十字架に架かられる前の主イエスのしぐさと同じでありました。確かに「最後の晩餐の時にそうされた」また「わずかなパンと魚で多くの人を養われたときもそうであった」。そこで一気にその二人の弟子の「目が開け」、つまり、「心の目」が開け、その人がイエスであると分かった。この出来事は決定的なことです。このように、一気に主イエスのことがわかる、信仰への道が他ならない自分に開かれていることがわかる。そういう時が、私にはあるのではないかと思います。

ですから、この「エマオ」という村に、つまり自分の泊まる所に、主イエスにも留まってくださいと、無理にでも引き止めることが大切です。その願いと祈りをきっかけにしてすばらしいことが起きたのです。この後で歌う、讃美歌21の218番1節は、原詩ではこうなっています。「私と共に住んでくだい。夕暮れですから。闇が深まっています。主よ、私と共に住んでください。ほかの助け手や慰めが逃げ去るとき、よるべのない者の助けである主よ、私と共に住んでくだい」。その時、私たちの心の目には、よみがえりの主イエスが、「わたしである」と言って近づいてきてくださるのが見えるのです。なぜなら、聖書が解き明かされた時、弟子たちと同様に、私たちの心は燃えるという経験をしてきているからです。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

復活節第1(イースター)_2022年4月17日配信