宣教  「すなはらにもマナをふらせる主」  加藤 真衣子牧師

出エジプト記 16章 12~31

モーセを通して出エジプトしたイスラエルの人々は、目の前にひろがる海を分けられて、前に進んでいきました。しかしその旅路は「荒れ野の旅路」でした。「荒れ野」というのは、昼は40℃以上にもなる高温、そして夜は非常に冷え込み、水も少ない、厳しい環境です。神さまを信じることができなくなるような、厳しい世界です。エジプトを脱出したイスラエルの民は40年間、その荒れ野を旅しました。試練の中で、「神さまはこの荒れ野にあって、自分たちを見捨ててしまったのではないか」と悩みました。

そのような試練の「荒れ野」は、砂漠まで行かずとも、わたしたちの日常生活に潜んでいます。わたしたちが生きていくとき、それは荒れ野の旅路のようです。人間の歴史を考えてみますと、神さまがお造りになった世界・自然を、わたしたちが壊し続けてしまっているので、現在の環境問題は大きな問題です。ロシアによるウクライナへの武力侵攻、残念ながら戦争状態はいまだ続いています。日本の夏は高温多湿で、とっても過ごしづらいうえに、感染症も落ち着いたと思ったら増えて、マスクで顔を覆う日々がもう何年も続いています。

わたしたち一人ひとりの生涯も、幸せなときばかりではありません。病気になったり、事故にあったり、理不尽な仕打ちを受けたり、そしてどんなに大切に想う家族やお友達がいても、わたしたちは大切な人を天に送らねばならない時があります。イエスさまがいなければ、別れの涙にくれるしかない地上の生涯。生きることは、まさに荒れ野の旅路です。

けれども、荒れ野は厳しい試練の場ですけれども、荒れ野は「神さまと出あう場所」でもあるのです。イスラエルの人々がそうであったように。モーセとイスラエルの人々の荒れ野の旅路は、そのまま私たちの人生の旅路に、当てはめられるのです。

海を渡って、荒れ野を旅したイスラエルの人々。彼らはしばしばモーセとアロンに向かって不平をつぶやきました。モーセは、「あなたたちは神様の愛を疑っているのだ」と言いました。尽きない憐れみの神さまは、彼らに天からのパンであるマナをお与えになりました。

マナは、イスラエルの四十年の荒れ野の旅路で、毎日与えられ続けました。毎日、日毎に、です。神様が日ごと、彼らを養い、生かして下さったのです。イスラエルの人たちも、私たちも、自分の力で集めたものによって、生かされているのではありません。その日その日を、神様の恵みによって養われ、生かされるのです。

そして「安息日にはマナが与えられず、前の日に二日分を集め」ました。7日目は安息日。礼拝の日です。神さまとお会いして、思い切り神さまの息を吸い込ませていただく日。その日には人間の働きをやめて、特別に神様にお献げして、再び旅路を続けるという、神の民の生活のリズムを、私たちは教えられ、与えられています。

わたしたちは延々と働き続けたり、延々と悩み続けるのでありません。わたしたちは安息日・礼拝に向かって生きています。この日には、悩みからも解放されてよいし、ずっと心を支配している心配事からも解放されてよいのです。日曜日中心の、神さまの愛のリズムは、わたしたちを憐れみで包み込む、優しいリズムです。あなたはあなたでよいのだよ! あなたは大切な人なのだから、安心していきなさい、わたしがマナを与えるから、わたしがあなたを守るから! という神さまの声を、これからも聴いていきたいと思います。

※以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

聖霊降臨節第8_2022年7月24日配信