ローマの信徒への手紙3.9~20 (2019.7.21)

クリスチャンの家庭では子どもが生まれると、聖書から名前を取るケースが多いのではないでしょうか。わたしどもの家庭もそうでした。ただここ30年余りの間に、聖書が2冊、そして3冊目へと変わりましたので、子どもの名前と聖書が一致しなくなった面があります。たとえば詩編23の口語訳聖書には、「緑の牧場/いこいのみぎわ」という言葉があります。そこから「まきば」とか「みぎわ」といった名前を付けた家庭がありました。その後の現聖書では、「青草の原/憩いの水のほとり」と前の言葉がなくなりました。昨年の新しい訳では、前の訳への要望があったのかもしれませんが、「緑の野/憩いの汀」となり、少なくとも「みぎわ」の方は復活しました。ただし漢字で書かれています。わたしどもの息子は義人といいます。これはローマ書1.17「信仰による義人は生きる」(口語訳)から取りました。この義人という言葉、これもその後の新共同訳聖書には継がれず、今回の聖書でも復活することはありませんでした。「正しい人」と訳されているのです。それなら「正人」でもよいのかもしれませんが、わたしの理解では、他のほとんどの日本語聖書同様、ここはやはり義人と訳すべきだと思います。この言葉は今日の10節でも使われています。「正しい者はいない。一人もいない」。この「正しい者」は前の口語訳では「義人」でした。もっともここでの義人は否定的な意味で用いられています。

この朝の聖書の箇所3.9に来て、いよいよ罪という言葉が初めて登場します。「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」。すなわちすべての人間は罪人であり、そこには例外はないということです。罪は原語のギリシア語ではハマルティアといい、それは的はずれというのが基本的な意味です。神から離れ、神なしでも生きていけると考える人間の傲慢さをその内容としています。コンコルダンスを引きますと、ローマ書だけで罪という言葉が50回ほど使われています。それは他の手紙や福音書と比べても圧倒的に多く、罪の理解がローマ書では特に重要であることを示しています。さらに注意して見ますと、そのほとんどが単数で用いられています。それは何を意味しているかといいますと、罪というのは、何か間違いを犯した、また何か失敗をしたというような一つ二つと数えることのできるものだけではなく、それ以上に神の前における根源的な誤り、人間の本質的な破れを示したものだということです。次のような詩編の言葉もそれを裏付けています。「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです」(51.7)。人間が長じるに伴って善悪を行う前に、すでに罪は存在していることを告白したものです。

この罪の下にある人間の現状を、パウロは詩編を中心に大きくは三点にわたって述べています。まず一点は神との関係の破れです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった」。これこそが罪の最たるものです。罪とは何か悪いことを行う、人を傷つけると言うことでもありますが、根本的には神との関係の問題なのです。その神との破れは人間の人格の破れをもたらします。それが二点です。「彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある」と語るのがそれです。これについてはヤコブもこんなことを言っています。「舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」(3.8)。本来のわたしたちの口、舌は人を喜ばすため、人を励ますために用いられるべきなのに、それとは正反対に現実が今日でもあるのではないでしょうか。罪は神との関係に端を発して、わたしたち一人ひとりの人格をも破壊しているのです。そして三つ目が人間相互の関係に破れをもたらしました。「足は血を流すのに早く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない」。現在日本には外国から、特にアジアから働きに来たり、勉強しに来たりする人々が増えています。先日も教会に電話がありました。日本人の日本語でないのですぐに外国人だと分かりました。教会に来ていただいたのですが、肌の色が浅黒く、目のぱっちりした女性で、出身はスリランカの人でした。日本語学校に通いながら勉強しているのですが、お母さんが亡くなって一度国に帰ったのだが、今後はお父さんが病気ということ、しかしそんなに帰れないから祈ってほしいということでした。彼女はクリスチャンなのですが、スリランカでは教会は少数派で、しかも過日ニュースで報じられていたように教会がテロにあって多くの死傷者を出しています。あのような小さな国の中にあっても、民族間だけでなく宗教的な争いが深刻であることを知らされました。

これらの罪による様々な破れは、アダムとエバの罪を思い起こさせるのではないでしょうか。創世記3章に描かれている楽園喪失の物語は、まず神との約束を破ったことから始まりました。彼らは誘惑に引き込まれて食べてはいけないとされた木の実を食べてしまいました。それによって二人は神を避けて生きるようになりました。それだけではありませんでした。そこからまた問題が生じました。それは責任転嫁などにより夫婦間、大きくは人間関係にひびが入ったのです。これなどを読んでいますと、今日の箇所でパウロが語っていることの下敷きになっているのではないかと思います。創世記ではそれにとどまりませんでした。さらには人間と自然との関係にまで影響を及ぼしていくのです。土はわたしたちのために食べ物を与えてくれるのですが、その大地を人間はまた開発に開発を続けて荒廃させていきます。現代は便利さを求めることによって、その代償の一つとして環境破壊をもたらしています。これもまた神との関係の破れ、すなわち罪からから引き起こされた深刻な現実だと思わされます。

このように結局は神との関係、信仰の問題が、人間にとって大変重要なものなのです。その関係が破れるところに、様々な乱れや争いが生まれてきます。そのまとめとして、「彼らの目には神への畏れがない」と述べています。「主を畏れることは知恵の初め」とは聖書の一貫した主張です(箴言1.7)。以前わたしが仕えた教会の役員の方が、この「主への畏れ」さえしっかりしていれば、人間は大丈夫だと言っておられました。わたしもそうだと思います。主を畏れることも、主を信じることもない、人間だけの知恵・知識がいかに脆く、危険に満ちているか、その危うさはわたしたちも多く知らされているところです。「皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった」。これこそが一人ひとりの姿であり、この世界の姿でもあるのです。このような罪の下になる人間は、自分の力で、自分の努力で義とすること、救うことはできません。上からの力、神からの恵みによってしか、自らを立て直すことができないのです。それがイエス・キリストによる救いです。いよいよ次の箇所でその根本的な救済について述べられるのですが、わたしたちは主イエス・キリストを信じる信仰によって、それのみによって、新しい命が与えられ、希望が与えられることを覚え、しっかりと主につながって新たなこの週を歩み始めたいと思います。