マタイによる福音書5.13~16 (2019.9.22) 

毎年のことですが、かねてより案内準備してきましたとおり、本日召天者記念礼拝を迎えました。わたしたち野方町教会は今年創立82周年を迎えましたが、その長い歴史の中で天に召された先輩諸兄姉の召天者名簿を今年も発行いたしました。全部で159名のお名前が記されています。またこの名簿に記載はなくとも、教会で葬儀を、あるいは牧師によって葬儀をあげた方がおられますし、事情が許さず教会とは関係なく葬儀を行った方々もおられます。そうした様々な事情のある方々もこの82年の歴史にはおられたことを覚えます。昨年の召天者記念礼拝後に新たにこの名簿に加えられたのは3名の方です。樋口昭登士さん、桑原信子さん、そして櫻井章雄さんです。まだわたしたちの記憶には鮮明に残っており、つい先日までご一緒に礼拝を守ってきたという思いを抱く、そうした友でありました。それらの方々は壁のお写真によっても思い浮かべることができます。

この朝の召天者記念礼拝に際して、マタイによる福音書にある山上の説教の一節を取り上げました。有名な聖句、地の塩、世の光について語られている箇所です。主イエスは人々に向かってこう言われました。「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」。あなたがた、すなわちわたしたちにも言われていることですが、「地の塩」であることとはどういう意味なのでしょうか。また「世の光である」とはどのようなことを言われているのでしょうか。そしてその二つの関係、わたしたちが地の塩でありつつ、同時に世の光であるとはどのようなことなのでしょうか。

まず地の塩についてです。これについて二点強調しておきたいと思います。塩の働きはいろいろありますが、特に味付けに欠くことはできません。だから今日でもどの家庭にも食卓には塩が置いているわけです。そこで第一点ですが、塩は他の調味料と違って多くはいらないということです。ほんの一つまみで十分です。最近は塩分控えめで、いっそう塩の量が少なくなっている傾向にあります。「あなたがたは地の塩である」と言われたとき、その少なさ、小ささを思い浮かべることができるのではないでしょうか。イエスの話を聞いていた人々も小さな人々でした。この山上の説教の冒頭に「心の貧しい人々や悲しむ人々」の幸いが語られています。人々から身に覚えのない悪口を浴びせられる人々もあります。自分には大したことはできない、賜物もない、とそのように自信をなくしている人々がいるかもしれません。しかし塩が多くはいらないように、どのような小さな働き、小さな賜物であってもそれを神さまが用いてくださるのではないでしょうか。

塩についてのもう一点、塩はそれ自身のためにあるのではないということです。食卓のビンの中にある塩、それは飾っておくためのものではなく、料理に振りかけられるためにあります。イエスは「あなたがたは塩である」と言われたのではなく、「地の塩」と言われました。この地とは、次の世と同じく、この世界のため、人々のためということです。与えられたどのような賜物であっても、世の中に蒔かれて、しかもやがて溶けて見えなくなるとき、初めて塩の役割が果たされるのです。「わたしは塩のままでいたい」とビンの中にとどまる、あるいは料理の中で溶けずに塊のままでいるということではありません。

もう一方では「あなたがたは世の光である」と言われました。「山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」。せっかくともしたともし火に蓋をして光を隠す者はいません。そうではなくテーブルの上において全体に行きわたるようにします。そうすればその光によって周りが明るくなるという当たり前の話です。としますと、一方で「あなたがたがたは地の塩」と言われたよう、自分が見えなくなるように周りに溶けてしまうことと、もう一方で世の光であるように周りに見えるようにするとは反対のことを言っているように聞こえるのではないでしょうか。実はそこに信仰者の特徴があり、双方の関係があるのです。

2000年に入って初めの頃、アメリカのレーガン大統領の葬儀が行われました。その葬儀ではレーガンさんの遺言に従い、ある牧師の説教が読み上げられました。それは1630年に語った建国の父の一人ジョン・ウィンスロップのもので、彼はこの説教が好きだったとのことです。それは今日の聖書、特に後半の世の光の箇所で、アメリカは丘の上に立つ町のようで、喜びや苦労を共にしつつ、神の前に正しく謙虚に歩んでいこうといった趣旨です。これはアメリカの建国の歴史を背景にしたもので、人々の目がわれわれに注がれているからしっかりやろうではないかというものです。カリフォルニアの太陽のように明るいレーガンさんと、厳格で陰鬱なピューリタンのウィンスロップの説教の結びつきに意外性を指摘しているのはICUの森本あんりさんですが、ここにアメリカの高き理想と率直さ、反面独善さが見られると述べています(「反知性主義」森本あんり)。

もちろんその光はわたしたち独自の光ではありません。イエスは「あなたがたは世の光である」と言われましたが、同時にご自身を指して「わたしは世の光である」とも言われました。「わたしに従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ」(ヨハネ8.12)。信仰者が光であるのは、そのようにイエスを信じ、イエスに従っていきる限りにおいての光であるというのであって、決して自分独自の力で輝かせることのできるものではありません。そして塩が自分のためでなく地のための塩であるように、光もまた自分のためではなく、世のための光として輝くのです。

「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」。ここにもう一つ、この二つに共通するものがあります。それは「である」という言葉です。それはどういうことかと言いますと、「あなたがたは地の塩になりなさい(ならなければならない)」とか、「なることができる」とか、また「終わりの時に世の光となるでしょう」という意味ではないということであり、今ここで、あなたがたは「それである」ということです。えっ、このわたしが?そうです、そのあなたがです。わたしたちは自分が誰なのかを考える場合、自分の目を基準にします。また世間の目に見える自分も影響を与えます。そこでは若い人は若いなりに、自分に自信が持てないときがあるかもしれません。現役のときにはそれなりの評価があったにもかかわらず、第一線を退いた今は人々から注目されなくなり、交わりもすっかり減少してしまいます。さらには病気がちになり、心身の能力も衰えていく高齢化。このように自分がどの段階を歩むかによって、その評価は絶えず変化をし、決して一定しません。けれどもイエスがご覧になった「わたし自身」は、青年の時も、壮年の時も、さらには老年になっても決して変わることがありません。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と言われる通りです(ヨハネ3.16)。だから今このままで、「わたしは地の塩であり、世の光である」ことが可能なのです。それはすでに天に召された人々も、この地上で同じように「地の塩、世の光」として歩んでこられました。この召天者記念礼拝を守るにあたり、わたしたちにもそのように声をかけ、評価してくださっていることを覚えて、慰めと勇気をもって歩んでいきたいと思います。