焼き物師と粘土   ローマの信徒への手紙9.19-29    2020.5.17 

まずこの朝一番に申し上げたいことは、狐崎トシさんの逝去に関することです。わたしたちの敬愛する狐崎トシさんは、去る515日の朝、入院先の慈恵大学病院にて静かに天に召されました。2か月前の311日に入院され、一度は退院されたのですが、再び入院の運びとなりました。それでも車椅子で病院内を移動したり、目を閉じて静かに手を組みネット配信による礼拝を聞き入っておられました。そのあたりのことは週報にも掲載しています。しかし4月の後半から5月に入って、容態は徐々に悪化していきました。そしてついに力尽き、天に旅立たれました。狐崎さんは1930320日のお生れですから、満90歳の生涯でした。

狐崎さんはリンパ腫の病だったのですが、ちょうど1年前の5月に一度同じ病院に入院しておられます。その時はまだ新型コロナウイルス感染はありませんでしたから、わたしどもはお見舞いに行くことができました。その後退院、小平の施設に戻られました。その年の秋には一度礼拝に出席しておられます。この度は二度目の再発ということだったのです。今回の入院で幾度となく耳にしたことは、病床にあってご自分の体調いかんにかかわらず、看護師さんたちに優しい言葉をかけておられたということです。そして励ます立場の看護師さんたちが逆に狐崎さんから励まされてきたということでした。いかにも狐崎さんらしい人となりではないでしょうか。心のきれいな、実に優しい方でした。教会の多くの人も、世代の違う若い人であってもずいぶん声をかけられ、親しくされたのではないでしょうか。狐崎さんは当野方町教会で最も長い教会生活を送った方のお一人です。1950年に嶺学・節子ご夫妻と共に洗礼を受けておられます。野方町教会の歴史のほとんどを歩んでこられたのです。優しい方ですが、信仰の姿勢には一本の筋がとおった厳しさがありました。それは「80年周年記念誌」から抜粋すれば、次のような表現になります。礼拝に臨む彼女の姿勢について、自身こう記しておられます。「人生の全生涯を伝道に捧げた、生の人間がつむぎ出す主日宣教。揺れ動く時代の波を週ごとにかぶり、のり越え、豊かな個性で語られていく伝道への情熱。参列者は頭をたれ、時に見上げ、罪の赦しと命のみ言の恵みに与る」。

今日の午後の狐崎さんの葬儀では、第二コリント4章から「土の器」について語る予定です。そこでは人間を「土の器」と表現しています。土の器とは土器です。言い換えれば、それは鉄や金などの金属の器ではないということです。土の器は他と比べて見栄えもよくありませんし、質においても脆弱です。ほんの少しの衝撃を受けただけですぐにひびが入り、壊れてします。それが人間を「土の器」と語る意味ではないでしょうか。それにもかかわらず土の器は宝を納めた器でもあります。宝とは何か。イエス・キリストの十字架の死と復活の信仰です。土の器としては依然と貧しく弱いままですが、信仰の宝を納めることによって並外れたものとなっていく、それが信仰における人間の姿なのです。

この朝のローマ書にも器が出てきます。それは別の角度から述べられたものですが、それでも共通してはいます。ここでは焼き物師である神に対し、人間は粘土から造られる器とされています。それはちょうど天地創造のとき、主なる神が土の塵で人を形づくったことに基づいたイメージでもありましょう(創世記2.7)。焼き物師と粘土の関係で人間を語る場合、「造った者と造られた物」ということになります。ところがどうでしょう。造られた焼き物が、造った焼き物師に口答えをするのです。「どうしてわたしをこのように造ったのか」。実際焼き物はこのように言うことはありませんが、同じように神に造られた人間は言うのです。これが神の前における歪んだ人間の現実です。それは今もそうではないでしょうか。神に対して感謝、信頼がなおざりにされていないだろうか。それらが小さい分、きまって大きくわたしたちの心を占めるのが、文句、不平、不満、不安、また思い煩いです。

旧約聖書におけるイスラエルの歴史をみればそれがよく分かります。もちろん神への賛美もあれば感謝もあり、信仰もみられます。しかしはるかに多く不平不満で占められていて、神から離れた人間、罪の人間がまことに鮮明に映し出されています。それはイスラエルだけの問題ではなく、イスラエルの歴史をとおして示された人間の姿でもありましょう。造られた物が造った者に対して、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と口答えをする歴史だったのであり、今もそのような歴史を歩んでいることに変わりはありません。

人間は「怒りの器」なのです。焼き物師から造られた器は、罪の器であり、神の御心に背き、悲しませてきたのでした。それでも神は寛大な心で耐え忍んでくださり、貧弱で自分勝手な「怒りの器」を「憐れみの器」へと変えてくださったのでした。「神の憐れみがあなたがたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐を軽んじるのですか」とあるとおりです(2.4)。それをパウロは今日の箇所で次のようにまとめています。「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました……『わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。《あなたたちは、わたしの民ではない》と言われたその場所で、彼らは生ける神の子と呼ばれる」。そこには何ら区別はありません。神は主イエス・キリストをとおして、わたしたちを貴いことに用いる器、憐みの器へと造り変えてくださったのです。

 
※本宣教はネット配信による礼拝として守られました。
 以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

復活節第6_2020年5月17日